変わり、生き延びたいことと滅びたとしてもそのままでいたいことがある

昨日の「行動力ほしい」の記事がずいぶん評判が良かった。コメントではなく公式LINEに感想が送られてくる始末で大変うれしい。「あぁもっと書きたいなぁ」という気にさせてもらえる。がんばって書こうっと。

それにしても反響を見ると、潜在的に行動力がほしいひとは多いのかもしれないと思った。

というより人間は、わりと変わりたい生き物なのではなのかもしれない。変わることに対する反発も本能だけど、変わりたいのもまた本能なのだ。
僕たちはみんな「変化はコワイ。でもじつは変わりたい自分もいるの……」といったワガママ野郎なのだ。

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たしかに「変わりたい」と沸々したスピリッツが自らの胸中、音を立てている日はある。

ライトなものだと服装や髪型、ふだん行く店を変える。ヘヴィなものだと仕事や住む場所、付き合うひと、生き方そのものを変える。

新しいチャレンジは成長チャンスでもあるし、一気に自分を進化させるにはそういった負荷が必要不可欠だ。成功するかは分からないが成長は約束されている。

そんな挑戦を高らかに宣言すると、家族や身近なひとたちが止めてくる。「やめとけ」と全力で飛び立つ翼を抑えてくるのだ。

不快にも感じるがこれは当たり前だ。そのひとがダメなおかげで現状の関係性は安定している。何なら親子なら、恋人なら、その二人という「社会」を根底から揺るがそうとする「反社会的」行動なのだ。

そんなデストロイヤーな真似は許されない。周囲の抵抗は「社会」維持のための当然の反応だ。チャレンジャーたちはこれを知っておかないといけない。

むしろ「不快にさせてむしろゴメンな」という気持ちでちょうどいい。選択を変更する必要はないが、その分、愉快な気持ちにさせることもできない。折衷案など存在しない以上、「他者の気分」までは許容しなくていい。どういう気分日なるかはそのひと当人の課題だ。

「おっしゃる通りこの社会を壊すことになります。でも俺は変わります。じゃあな」という事実を引き連れて頭を下げるのがベターだろう。

人間は変わることを恐れている生き物だと思う。だけどその中で変わらないと生き残れなかった生き物でもある。進化の過程で淘汰された個は「変わるのコワイ」がいきすぎたメンバーらだ。環境に適応し続けてきた者だけが残ってきた。

鉄と木を鳴らすロックバンドをやり続けている。辞めていった友だちが脇を通り過ぎていった。ウイルス騒ぎの環境に適応するためだったのかもしれない。だけどあれはあれで寂しかった。でもこれは「社会」維持のための反応なのだろう。

変わり、生き延びたいことと滅びたとしてもそのままでいたいことがある。

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