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ショットバー15階の手すり

ほとんどの夜の記憶はない。人間誰もがそうだろう。なぜなら僕たちは忘れていく生き物で、それは忘れないと生きていけないようにできているから。

だけどそれでも覚えている言葉がある。それらは途切れ途切れになった記憶の中、タトゥーみたいに海馬に彫り込まれている。

「苦しみの連続でできている毎日には価値があるんじゃない?」

「離れても無かったことにはならへんのちゃう?」

「独りで生きていきたいって思うけど、独りじゃ耐えきれへんやん」

「適合して泣くぐらいなら不適合なまま笑ってたいやん」

気が付いたら頭に残っている言葉ばかりだ。

「繋がりが消えても言葉は残る」

これはこの救いの無い世の中で、数少ない救いのひとつだ。
そんな彫られた言葉たちは、今日も僕の中で灼けたまま生きている。


あの夜、僕たちは住んでもいないマンションの15階にいた。
廊下の手すりに寄りかかって、燃える夕焼けを眺めていると、隣りでプルタブの開く音がする。僕も発泡酒を開けた。

オートロックもないこの場所は、たまり場として最高だった。不法進入にあたるのかは分からない。だけど僕たちは毎日のようにここ、「ショットバー15階の手すり」に通い詰めた。

街の人々を見下ろしていると、社会という大枠の外に出られたような気がした。

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欠点をあげる筋合いもないが、「15階の手すり」唯一の悩みは騒音だった。

河川のザァザァという音、梅田に向かうバイクの走行音、駅のアナウンス、十三大橋を叩く阪急の金属音、飲み屋の怒声。騒音がひっきりなしに聞こえてくる。

会話できないほどではない。だが静寂とは程遠かった。
天空で混ざりあう騒音は、社会にとって何の役にも立たない、無用で迷惑な存在だと思う。だが、確実にそこに在るものだった。

「自分が作ってる歌も、この街の騒音みたいなもんだな」と思った。

「役に立たないのに在るもの」は僕自身を表す慣用句そのものだった。同族嫌悪なのか、いつもこの騒音が耳障りだった。

あの頃、僕はすべてを貧乏のせいにして、毎日ロクなことをしていなかった。ヤケにもなっていた。思いどおりにいかない日々はつらかった。

朝起きたら目覚めの酒をあおって、睡眠薬をかじってラリってばかりいた。そのせいで断片的な記憶しかない。ただ、いつも泣いていた。雑魚だった。

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15階の高さに響き渡る騒音はずっと鳴っている。

耳を傾けていると、だんだん頭の中から発音されている感覚になってきた。社会のゴミである自分と、騒音とが一体になっていく錯覚に陥る。被害妄想が加速して気分が悪かった。

彼女が隣りで口を開いた。

「声聞こえづらいけど、この音のせいで無言になっても気まずくないね」

「え?こんなん、うるさいだけじゃないですか?」

「そう思うひともいるかもなぁ。でもあたし、こういうのけっこう好きやねん。なんかあったかない?」

「あったかい、ですか」

「シーンとしてるのより、あったかいやん?」

「わかる気もします、たぶん」

口を聞いているあいだに、頭の中から音はしなくなっていた。

マンションのドアには【18禁】のマークがたくさん貼られていた。不法入国者の外国人が占拠していたり、違法風俗が経営されていたりと、ムチャクチャな治外法権だったらしい。

しかし、そのわりに居心地がよかった。
僕たちは手すりにぶらさがるみたいに寄りかかってい、何時間も喋り続けた。酒が切れたらコンビニで買えばいいので安上がりだった。

彼女は僕よりも年が5つ上だったせいだろうか。生き方すべてが哲学的に見えた。でもその5という数字以上に、彼女は僕の上位にいた。

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マウントをとることもなく、威張りもしないひとだった。でもどことなく凛とした迫力があった。

「かなわないな」と思う回数が一定数を越えると、人間は人間に惚れてしまうらしい。その定理に完全に溺れていた。

彼女は結婚していたし、僕は未成年だったから、そもそもお互いにとってプラスになるわけがなかった。でも僕たちはそこに価値を感じていた。

「絶対、お互いのためにならんのにな。それでも一緒に過ごしてんのって、最強に損得抜きやと思うねん」

彼女は酔っ払うとこの理屈を楽しそうに、少し寂しそうに話した。

「お互いのためにならないっていうけど、俺はいつもいろいろ話聞けて面白いですけどね」

「ありがと」

「じゃあもうしばらくは、とりあえず寒くなるぐらいまでは、ここに来ていたいですね」

僕はよくしがみつくような、ダサいことを言っていた。

その度、彼女は笑っていた。なんの返事もなく、ただ笑っていた。泣かないひとだった。

あの頃の僕には「お互いの」の後に隠れている言葉が聞こえなかった。それが「将来」なのか「未来」なのか「この先」なのかは分からないけれど、とにかく僕の人生には「目の前」しかなかった。

彼女と離れたくなかった。いつまでも一緒にいたかった。いられないのが分かっているからこそ、しがみついた。

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ある日、僕たちは淀川の河川敷を歩いた。
ダラダラ歩いていた。どんどん知らない街を過ぎていく。いつまでも歩き続けられる気がした。地球が地続きなら、ブラジルまで行ける気がした。

アルコールと睡眠剤のせいで脳みそは夢うつつだった。そこに時折り彼女の声が滑り込んでくる。

「私マーク・ザッカーバーグキライやねん」

「会ったことあるんすか?」

「大阪弁喋ってたわ」

「夢じゃないですか」

彼女は笑いながら、ロング缶に口をつけた。
それを僕は草食動物みたいに目の端っこでのぞき見た。

彼女は缶をプラプラさせながら続けた。

「もうおらんくなったり、会えなくなったひとのニュースなんていらんやん」

「なんか本能とか群れの属性みたいなもんの本質には抗ってる気はしますね」

そこまで言って、僕も缶に口をつけた。

「でも俺はまだよく分かんないす。高校の同級生も二年前とかの話やし」

「まぁ、そっか」

彼女は片方の眉毛だけを動かすみたいに笑った。

「でも、会いたくないひとがおるってのは、分かります」

「会いたくないひとに限って、忘れられへんしなぁ」

「忘れたいんすか?」

「忘れたいのにザッカーバーグがチクチク言うてくんねん」

「ザッカーバーグが言うてるわけちゃうでしょ」

シリコンバレーの天才も、まさか大阪の片隅で見当違いの因縁を付けられているとは思いもしないだろう。

僕は少しあきれて発泡酒を飲み干した。

「でもな、生きててくれてよかったとも思うねん」

変に真面目な声につられて横を見た。唇の開け閉めが残像みたいだった。光のせいだろうか。
その横顔に夕焼けが当たって、毛先が輝いていた。サラサラと、本当に音が聞こえてきそうな前髪だった。

彼女を見ていると、なんだか泣けてきた。
情景と音とゆるくなった脳みそが連動して、涙が止まらなかった。悲しいわけでもない。なのに目が濡れた。

たぶん「この光景は二度と見れない」と本能的に悟っていたからだ。

このキツくてダサイ時期しか見えないものを確実に見ている。それを肌で感じていた。

「また泣いてんの?」

「飲みすぎて気持ち悪いんですよ。歩きすぎてつかれたし」

疲れてなどいなかった。すべてがもう二度とないような気がして、今日がいつか懐かしくなってしまうことがキツくて、上を向けなかった。

「しゃあないなぁ」

彼女は笑って、僕の頭に手を置いた。その直後にくるりと真後ろを向いた。

「そろそろかえろっかぁ」

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つられて後ろを向くと、小さく、本当に小さく梅田のスカイビルが見えた。

十三大橋などは蜃気楼のように霞んでいた。目を凝らさないと見えないぐらいの小ささだった。

「人間、歩いた分だけなら遠くまで来れるねんなぁ」

彼女はそう言って、笑って遠くを見ていた。スカイビルよりも、十三大橋よりも遠くを見ているような目だった。僕の目にはすべてが滲んで映って、もうそれらは失くなったみたい見えていた。


僕たちは過ごした時間の分だけ遠くに行けるわけではないらしい。でも足を踏み出せば、イマいる場所よりは遠くに行ける。

僕は少しずつだけど、ひとつひとつ歩むことにした。そうすれば、ひどい現状もいつか変わるように思えた。

悲しいことはスカイビルみたいに、十三大橋みたいに霞んでひとつひとつ消えていく。

それまでやってこなかったその場しのぎではない頑張りは、小さく、でも毎日を確実に変えた。

あのマンションから聞こえた騒音みたいな音楽を、世の中にひとつひとつブッ刺してきた。

彼女はたしかにあの騒音が好きだと言っていた。

だから自分の中にある河原の音、梅田に向かうバイクの音、駅のアナウンス、阪急の金属音、飲み屋の怒声を鳴らし続けた。

「誰のためにもならないあの音を好きだと言っていたひとがいる」という事実は、「この歌もきっと誰かに響くはず」と信じるには充分すぎた。

泣く日は減った。自分や環境が変わるのも分かった。

彼女はたしかにいなくなってしまった。

いなくなってしまったけど、僕はブラジルにたどり着くまで、今日もひとつひとつ歩き続けている。



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