ふれんず_

希望の扱い方

「たとえ絶望にすっかりとりつかれても、あたかも希望を抱いているかのように振る舞わなければならない。さもなければ自殺しなければならなくなる」とフランスの作家が書いていた。

その通りなのだ。

僕の人生は絶望の連続だった。それでも希望があるように振る舞ってきた、というと語弊がある。もちろん希望はあったのだ。

別にないものをあるかのように振る舞っていたのではない。しかし他者から見れば、そのように見えただろうし、そう解釈されてもかまわなかった。

月収5万で家賃6万の暮らしだった僕が常に回避してきたのは「自殺」だった。「自殺したい」が止まらなかった。それでも「死んだら負け」だと思っていたので、ひたすら我慢してなんとか自殺願望を回避してきた。

何しろ自殺とは突発的にやってしまうらしいから、これは今もずっと用心している。自殺者の7割がアルコールなどの薬物をキメていたというから、一人で飲みまくるのも気を付けている。

つまり「生きよかな、死のうかなー」という検討の結果ではなく、ひとは勢いで飛び降りてしまうものだ。

とりあえずは「死ななければ絶対に素晴らしいことがある」と信じて生きてきた。その思いは言葉では言い表せないが、ワラをもつかむ気持ちで生活の中から希望を見つけては「楽しい」と笑ってきた。

楽しいことはちゃんとあった。でも意識的に「幸せ」とは言わずにやってきた。

幸せと思ったらそれで止まってしまう気がしたのだ。幸せには終着駅に近い達成感がある。

だから絶望の中で「幸せ」と思ってしまうのはひどく危険なように思っている。

絶望の中で「幸せ」を探すのはやめた方がいいと戒め倒した。今だってその堕落した言葉を口にした途端に僕は萎えていくだろうし、稼ぎも暴落するだろうし、デブまっしぐらになるだろう。

一方で「楽しい」には快楽的なエネルギーがあって、僕たちを前に進ませる。それは希望になるし、絶望の中で唯一さしこむ光だ。

希望はいい。だいぶナイスなのだ。だけど「希望の扱い方」みたいなものがあるなぁと解散した今、思う。

扱い方とは「希望は他者に依存しないこと」という一種の主体性だ。

たとえば親が子どもに期待を抱く。バンドメンバーに期待を抱く。恋人に、親に、友達に、ドラえもんに。

希望を抱いた後にその誰かと別れると大概トラブルになる。のび太は道具を出してくれないドラに対して「裏切られた」と感じるのだ。人間としては最下層のクズである。

希望を持つなら名誉や物を得るために考えるのがベターなのだ。シンプルに名誉欲、物欲、出世欲だ。悪いことじゃない。

絶望している男がコンテストで優勝することやフェスに出ること、ファンを増やしてステージのグレードを上げること、メジャーデビューを目指すことに希望を持つのはいいが、彼女に希望を持ってはマズイ。

彼女が将来のことで言うことを聞かなくなったときにトラブルになる。

親に希望を持ってもいけない。親の経済力だって落ちてきて、子どもを助けたくも助けられなくなるのだ。

ドラに希望を持つのび太のごとく、親に希望を持っていたらその親を恨むことにもなる。

昨今は会社や世間に希望を持っているひとまでいる。解雇、減給。左遷されて会社を恨んでいる。正直、そんな人間だから酷な措置が下るのだ。無関係ながら「会社はボランティアでも貴様らのお母さんでもない」と怒りがこみ上げてくる。

絶望しているとき、身近なモノに希望を持つようにしてきた。目の前のそれらはゆるりとストレスを溶かす。小さな希望の積み重ねだ。

「一日中24時間絶望している」なんてひとはいない。そうだとしたら頭が悪い。ひとはどんなに苦しいときでも、希望を見つける能力がある。

絶望から抜けるには時間がかかるのだ。簡単に抜けれるほど甘くない。そして一気に抜けようとするから痛手を食う。

その「一気」には身近なひとへの希望も含まれている。言い換えるなら恋人や親、会社、友達に依存すると痛手を食うのだ。

たとえば目の前にスマホがある。これで好きな情報を得る。楽しいはずだし、滅多なことではスマホは裏切らない。

人間は裏切るし、気持ちも移ろう。「人生かけてやってる!」と宣言し、バンドをやってた彼がもうライブハウスのどこを探しても見当たらないのが現実だ。音楽シーンから完全に消えてしまうのに時間はさほどかからない。

それだけ人間はそれぞれの思うままに動く。それだけ事情がある。みんな自分のことで手一杯だ。誰かに助けてもらうという処世術は不確定要素が多すぎるのだ。

残念ながら自分を救うのは自分しかいない。自分だけの力で難関を突破しないと、ドラえもんが安心して帰れないじゃないか。





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