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繋がりと繋がり方と

「繋がり」の話というか、「繋がり」を保ち続けるための「生命線」の話というか、だ。

一般的にバンドメンバーの繋がりは「音楽性」や「方向性」が生命線だ。
家族はやっぱり「血縁」や「婚姻届」だったりだろうか。
カップルは「付き合っている」という言葉だったりするのかも。
ヤクザや漢は「盃」か。

だけど、この「一般的な生命線」による繋がり方というのは、ほとんど無理がある。

人間はそんな形式や書面、言葉の契りで関係を続けていけない。
もちろん諦めとか、我慢を使えば耐えられると思う。

だけどもはや、同じ場所に永続的にとどまる時代じゃない。
もう「生命線」が危うくなったときに、無理してつなぎとめることが幸福っぽくないのだ。

2018年からはそういう匂いがする。

バンドは音楽性が同じだけでは解散するし、夫婦は婚姻届があっても別れる。
親は血が繋がっていても構わず虐待するし、仲間は盃を交わしても平気で逃げ出す。

「うそつき!」と言えばそれまでだが、僕は仕方ないとも思うのだ。


むしろ関係をアッサリ白紙に戻してしまう方が真実だろう。「白紙に戻せない関係!」なんて、その方が嘘だと感じてしまう。

『万引き家族』の余韻から戻ってこれない理由がコレな気がする。

端的にレビュると「家族じゃない人たちが寄り合って楽しくやっているけど、家族じゃないせいで許してもらえない話」だ。

生きてると、繋がりの生命線が「不正」だったり「不安」だったりのときがある。だけどマイナスなパワーの方が、強く繋がれるときがある。

血の繋がった親よりも、大阪で抱きしめ続けてくれたひとの方が僕を大事にしてくれた。

過ごした時間が長いダチよりも、大人になってから同じ痛みの中にいるダチのために何かをしてあげたい。

でも「どうしようもないからこそ、側にいたい」という負けの気持ちは、そんなに特殊でもないのではないか。

僕の人生は「より良く!」なんて進め方をしたとき、ロクなことにならなかった。「幸せに向かうこと」はどうにも耐久力が無い。すぐに折れる。

「より良く」なんかより、期待せずにいい時間を楽しめる方がずっといい。

未来なんて無くて、これ以上良くなることなんて無くて、イマが最強に最高と信じる方が健全だ。

僕は「それは間違ってるよ!」をかき集めてきた人間だけど、決して少数派じゃない自信がある。
僕をそれらの言葉で踏んづけたひとたちも、誰かに「間違ってるよ!」を言われてきたから、言うのだろう。

邪悪な年上に洗脳されたから「それが正しい」と思いこんでしまって、その装置を負の連鎖として使っただけだ。

正しいことなんてわりと無い。
間違ってることはたくさんあるのに、正解はいつも複数形だ。

人生は思うとおりにはいかないけど、人間は思うとおりに生きる方がいい。
そりゃもちろん勇気もいるし味方も減るし、苦しくも痛くもある。

それにしても「余韻が抜けない作品」ていうのは、歌でも本でも映画でもやはり好きだ。観るのに、これまた苦しくも痛くもあるんだけど。






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