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こういうひとに百万貸したい

書いていなかった。

こんなんじゃ百万借りられない。百万借りたい。

毎日のように更新していたのに止まっていた。魂の居場所、ここnoteを仮死させていたのだ。

しかし何もしていなかったわけじゃない。「執筆」なる僕の創作マストアイテムは常に手元にあった。

別のところで、ブラック企業のプログラマーのごとく文章を書いていたのだ。デスマーチすぎて半泣きになった。疲れ果てていた。職場もないのに退職したかった。こんなことは初体験だ。

それにしても「文字を書く」や「文章を綴る」というのは奥深い。もうこのアクション自体が創作に繋がっている。
とは言っても、「書く」って一見簡単に見える。

「よみかき」は誰にでもできるし、歌唱、演舞、運動のようなものに比べると特異性は少ない。「文章が上手いひと」よりもイチローやメッシのほうが超人的だ。

これは「文字を使わないひと」というのが、この世にいないからじゃないだろうか。

カラオケに行かないひと、踊らないひと、運動しやいひとはいても、「書かないひと」はいない。つまり出来ないひとがいないのだ。Can'tマンがゼロだし、文字とはみんなが使うものなのだ。

どんなに便利になっても、時代が進んでも、やはり「文字」は使われる。というか人類の進化自体が「どうしたらラクに文字を使えるか」という流れを汲んでいる。

文字は紀元前のメソポタミア文明で生まれた。六千学年ぐらい上のシュメール人が発明した最古の遠隔伝達装置だ。やつらは「これならイラクでの出来事をイギリスに伝えられるじゃん!」と思ったらしい。

そう、今も昔も文字を使うときは「遠い」のだ。油断しがちになるが、書き手と読み手は離れている。

座標軸的な意味でも、思考的な意味でも遠い。

筆談でもしない限り、眼前の人間とテキストでコミュニケーションするひとは少ない。怪しい。

文字はface to faceよりも難しい。敬意の表現が少ない。声色、表情、ボディランゲージに頼れないというのは痛い。
「面と向かって頭を下げられない」し「泣いて笑って抱き合う」も使えないのだから八方塞がりだ。

だからこそ書くときは「離れし誰かに書いている」と構えておく。これだけで、それなりに緊張感が出てくる。

何も文学的な話ではない。LINEでさえも、読み手と書き手は遠い。
スタンプは便利だが、『懇願』など、強いエネルギーの必要なコミュニケーションには流石に文量がいる。

以前、「100まんかして!」というLINEが来たことがあるが、貸さなかった。しかもそいつのことを思いきり嫌いになった。
文字を沢山書いてりゃいいわけでもないが、半角含む九文字でやられると人格すら疑ってしまう。

逆に言うと「文章をちゃんと扱えるひと」というのは信用される。

学歴やら資格やらは信用において当てにならない。その努力はすごいが、信じられるかどうかは別の問題だ。

信用とは「任せられるか」だし、「まぁこいつに頼んで失敗するならいいか」という腹括りの決め手だ。百万も貸す。
こういう男になっておかないと『ひゃくまんえん』なんて馬鹿な金額は借用できないのだ。

こうなると「よみかき」の能力のほうが大事だではないか。
書けるかどうかもあるが、「活字で出来ることと、出来ないこと」を把握しているからだ。

とりあえず百万円をLINEで借りることは出来ない。

もしかしたら物凄いピンチで、それだけあれば娘の命が助かるのかもしれない。

もしかしたら絶対儲かる投資で百万円が三億円になることと確定している案件なのかもしれない。

もしかしたら「百万可視て!」なのかもしれない。一万円札の画像を百枚送ってくれという話なのかもしれない。

いろんな可能性があるが、やはり読み手の僕としては相手の気持ちに辿り着けない。

「100まんかして!」では、あまりに寄り添ってくれていないとすら感じる

リスペクトが欠落しているのだ。

「少しでも近く寄り添う」のがテキストでの優しさだし、読んでくれる相手への敬意だ。文章力、テクニック、技量は関係ない。これは想像力の話だ。相手との距離感を測る能力だ。

だけど「分かんねーだろうなぁ」などというおこがましさだとよろしくない。当たり前だが、「ナメている」というのはバレる。上から目線の人間ほど鼻につくものはない。

だからこそ「近くまでいく」という心持ちいい。これは自戒も込めてだ。

僕たちは遠いところから受け手のもとへ寄り添って、近付いて、手を伸ばして、何とかその指先に触れるために「書く」のだ。

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