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めんどくさいおっさんが生まれるまで

めんどくさいおっさんというのがいる。

職場とか居酒屋とかみんなの頭の中にもいると思う。そもそも年齢というよりおっさんになると人間はめんどくさくなる。

おっさんは自分の存在理由がなくなることを恐れていて、1ミリでもないがしろにされると超不安になり、ヘソを曲げて、そして不機嫌になる。まぁまぁ偉いから場には「機嫌をとる」というタスクが発生する。立場だけあるメンヘラだ。

いやだ。なりたくない。そして関わりたくない。

そもそもなんでめんどくさいおっさんになるのか。世の中には40代、50代でそうじゃないカッコイイひともたくさんいる。会ったことがある。ただ、20代で「めんどくさいおっさん」化しているひともいる。

「なぜめんどいおっさんになるのか」を考えてみたが、原因の一つに「選択」があるんじゃないかと思った。

僕たちは生きる限りは選択している。セレクトしまくっている。僕もあなたも選択肢を選び取ってここまでやってきた。

迷ったり迷わなかったりしながら年を重ねてきたわけだけど、選んだことの先に自分という人格が存在していることが分かる。

「働くかニートになるか」でニートを選べばニートっぽくなるし、ロックをやるかヒップホップをやるかを選んで、ヒップホップを選べば服はダボダボになる。

今ある自分は過去の選択肢によってもたらされた存在と言える。クールなものを選べばクールな野郎になるし、アホなことばかり選べばアホになる。おっさんぽいことを選べばおっさんになるのだ。

今日もあしたも僕たちは選択の帰路に立たされる。「日常」にだって色んな選択肢がひそんでいる。

そして選ぶにはみんな基準がある。
一番使うことが多いモノサシは『損か得か』という目盛りだろう。だいたいのことは損得で選んで間違いはない。コンビニ買うよりもスーパーで買う方が安いから主婦はスーパーへ行く。大盛りが無料なら大盛りにするひとが多いんじゃないだろうか。

では損得で決めにくい、また損か得かが読みにくいことはどうすればいいのだろう。

「文化部か運動部か」
「就職せずにバンドやるか」
「金持ちと結婚せずに幼なじみを選ぶか」
「出し子の闇バイトは儲かるけど地味に働くか」
「解散するかしないか」
「退職するかしないか」
「離婚するかしないか」
「赤を切るか青を切るか」

【スーパーorコンビニ、普通盛りor大盛り】よりかは重たい決断がいくつか訪れる。出し子のリクルートが訪れるひともいるだろう。

困ったとき、選ぶ基準を見失ったとき、便利なモノサシがある。

・自分のリスペクトしているひとならどうするか?
・どっちを選んだ方が自分を好きになれるか

この二つを使うと外さない。というか後々後悔が少ない。これを使って選ばれた進路は不安になったり、ストレスがかかることも多いが、結局後から自分のことを嫌いにならないで済む。「俺ダセぇ」と思いながら生きることほど苦しいものはない。自己嫌悪からエスケープできるだけで儲け物である。

反対に「恥の多い生涯を送ってきましたー!」と太宰治にならざるを得ない選択肢は選ばない方がいい。
僕も何度もそちらを選んでしまったことがあるが、けっこうこの目減りした自尊心は消えない。「仕方なかったんだもんよ……」という言い訳だけがいつまでも傷として残り、かさぶたが取れても跡は消えない。10年前に選べなかったカッコイイ道をたまに夢に見る。

「自分のことがけっこう嫌いじゃない」という精神的コンディションはメンヘラにならないため、めんどくさいおっさんにならないためにはマストだ。何物にも代え難い。
自分で自分を誇れるようにしておくことはひいては周りにもウザがられない。

しかし人間は弱いので、ズルをしたり、逃げたり、誰かを悲しませる選択を選んでしまうこともある。仕方ないこともあるし、昔の後悔はもう先に立たない。大切なのは今日からの選択をどういう基準にしていくかだ。ダサめなセレクトが大量に重なりすぎると取り返しがつかなくなる。

自分で自分が好きなのか嫌いなのかも分からなっていくのだ。「美的感覚」がバグるとそもそも好きなことと嫌いなことが判別つかなくなる。

そして「嫌われないようにする」とかいう意味不明な行動基準にすらなってしまう。その中で何かしらをこじらせ、年齢だけが重なり、自尊心を失ったモンスターが「めんどくさいおっさん」だ。

自分がなっても周りにいても危険な存在と言える。なりたくない。年を取ることは悪いことじゃないが、ないがしろにされたぐらいで不機嫌になりたくない。「こうなりたくはない」というものがクッキリしているうちはまだ大丈夫なのかもしれない。




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