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うつ病の人が自殺する理由

うつは精神疾患の中でも最も有名なものの一つだ。

その知名度はパニック障害、統合失調症、PTSDなどのビッグネームの中でも頭一つ抜け出ている。ただ、その実態はあまり知られていない。

例えば、「うつは自殺につながる唯一の精神疾患」ということなどあまり知られていない。そしてその発症、発見など未知だったりする。たとえば風邪ならば発熱、骨折ならば激痛など分かりやすいサインがある。
ではうつにおける『サイン』は何だろうか。気付きにくいかもしれないが、気分障害なわりに注意深く観察するとじつは症状はちゃんとあるのだ。

僕の去年を例に出してみる。
たしか六月ぐらいだったと思う。去年の梅雨はやたらと晴れていて、湿度はあるけれど気温もほどよく、春と夏が土俵際で競り合っているみたいだった。
そんなある日、駅前の牛丼屋に入った。

頼んだ牛丼が来る。トレイの上で蒸気する湯気、どんぶりの周りには、拭き方が雑なのかつゆが垂れている。特別何の特徴もないベーシックなものだ。

さて、食おうと思ったときだ。右手が動かない。目の前に置かれた牛丼は「早く来いよ」と言わんばかりにこちらを見ている。普段なら無意識に習慣として、箸を手に取るのにまったく体が動かせない。

とにかくまず箸を取ることができない。箸へと手を伸ばす気力がまったく湧いてこないのだ。全身に「この箸を取ったところで仕方ない。この先には何もない」といったような大局的な諦めがかぶさっている。

それを感じているのも、目に映る風景すべてを見ているのもつらくなってきた頃だ。今度は呼吸のやり方が分からなくなってくる。「吸って吐く」その行為がとてつもなく難しいことのように思えてきた。

しかし停止すると死ぬことは分かるので、ミスらないように慎重に呼吸を繰り返す。その精神の汚泥に数十分浸かっていると、もうヘトヘトになってきてしまった。

ハタから見ると牛丼を目で楽しんでいるやつにしか映らなかっただろう。なぜか呼吸も荒い変態かもしれない。でもこちらはそれどころではない。ただ、二年前にも似た経験があったので、「こりゃうつ病だ」とあっさり自覚した。病気だ、俺は、と。

緊急事態だと自覚すると、体がうそのように動いた。不思議なもので、気付きは行動を呼び起こすらしい。とにかく千円札を手付かずの牛丼の乗るトレイに置いて、ロータリーのタクシーに乗り込んで病院へ向かってもらった。
白髪の禿げあがった運転手に「頭がおかしくなった。どこでもいいから行ってくれ」と告げると小声で「ハイ」と返ってきた。「新宿東口へ」と言われたのと大差ない無機質で機械的なトーンだった。

二年前とは違う病院だった。
心療内科の待合室というのは時空がねじれて日本中つながっているらしく、佇むメンバーはほとんど変わらなかった。

髪がめちゃくちゃになった女、服を千切りながら超近距離でスマホを見る男、号泣しながら号泣している家族に押さえ込まれれている何か。この位相でしか出会えない人々がゴロゴロいる。

これは印象の話に過ぎないが、歯医者や外科内科と比べてなんというか「ひしめいて」いるのだ。密という言葉では表現しにくいが、それぞれの存在感が相まって、待合室がぎゅうぎゅうに感じる。

診察室には診療器具やらも何もない。まるで刑事ドラマの取り調べ室のような部屋。医者に「うつですね」と告げられて「うむ」と返事をする。

あとは即効性の薬と遅効性の薬をもらう。それだけだ。不思議なもので薬を飲みまくっていれば、勝手に治っていく。情けない話だが、人間の気分というものはこうも『薬効』の前では無力なのだと痛感する。酒を飲んでシラフから変化のない人間がいないように、薬を服用して影響のない者もいない。薬効感を纏いながら日常を戻していく。

医者に「うつは治らない」と言われた。なりを潜めることはあっても治らないそうだ。加えると「薬に対する心的アレルギーを無くせるかどうか」が決めて、言葉通り生死を分けるという。

患者自体も軽んじるひとが多く、「精神薬を飲むほどでもない」「病院に行くほどでもない」という考え方が多い。欧米だとカウンセリングが保険対象になっていたり、事件に巻き込まれたらカウンセリングを受けないと仕事に復帰できなかったりする。

事態の重さを受け止め、アルコールを入れないこと。

それが死なない防御策らしい。無理かと言われたらまぁ無理だ。僕たち患者のほとんどは、死んでも構わないと思っているからだ。


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