ひとの目

大人になってキレにくくなった。あなたもそうではなかろうか。どうだろう。「ワタクシはどんどんキレやすくなってます!」というひとを、僕は未だかつて見たことがない。

それぐらい幼いホモ・サピエンスというのはとにかくよくキレるし、分別がつかないのだ。

そのホモサピという乗り物を操縦して二十年、三十年経つと、同じホモサピでもいろんな個体がいることを学習する。

「違い」を楽しめるようになるのだ。
場合によってはモンゴロイド、アングロサクソン、漢民族、ぐらいの違いまで楽しめるようになる。

僕も例に漏れず、十代、二十代には無いある種の余裕が生まれてきた。いろんなやつととりあえず仲良くできるようになった。

これには「諦め」とか「期待しない」とかも含まれるし、「煮ても焼いても食えぬやつはいる」も入ってくる。
でも基本的には「自分と他者は違うことを理解する」というアビリティだ。「違いを認める」というのは他者を尊重することと同義なのだ。

「違いを認められるようになった」のは事実だし、誰かと喧嘩する回数も減ってきた。ひとまず「進化」と受け止めていいだろう。

しかし、理解力が増したわけではない。「理解できなくても構わん」と思うようになっただけだ。「こいつは理解不能だ」という現象はむしろむかしより増えたように思う。

もう僕はあのひとのことも、あのひとのことも理解できないのだ。「理解できなくて普通」と思っているか、乱暴に言えばハナからほとんどの対人関係を諦めている、と言ってもいい。

もちろん理解できないと駄目なわけではない。「理解のあるひと」というのは「理解力があるひと」ではなく、「理解不能な存在を認めること」なはずだ。

それぞれが良ければそれでいいのだから、あるべき姿だ。

有名人にクソリプを送っている人々がいるが、「自分にとって訳の分からんやつがいたっていいではないか」と言いたくなる。

もちろんそんなクソリプを送っている馬鹿にも理解を示す必要はある。簡単である。思考回路は理解に及ばないから「一定数馬鹿はいる」という現実を承知すればいいのだ。

そして「違いを認められるようになる」と、面白いことに自分も好き勝手やりだすようになる。

「俺だけ違ってても別にいいだろう」と、「誰かと一緒であること」に価値を見出さなくなるからだ。

僕もある時期から自分の道をズンズン進んでいくようになってきた。その性質はとどまることを知らず、2019年現在、未だにマイノリティの中にいる。

もちろん気もラクだし、向いているのだが、寂しくないわけでもない。代償だろうか、いろんなひとと心の距離が離れてしまったようにも思う。

しかし意見や価値観、信ずるものがぶつかるぶつからないは関係ないのかもしれない。

身体も心も離れるときは離れていくのだ。ぶつかっていよういまいが、関係ない。

「違い」があったとしてもリスペクトし合えていれば、人間は繋がっていられる。反対にすべてが同じでも、リスペクトが無ければ共にいることは苦痛を伴う。

「自分の好きなように何かを始めたり、辞めたりして、ひとに期待しないで生きていくのはさぞ気持ちがいいだろうなぁ」という言葉が、角田光代さんの本に書いてあったのを思い出した。

じつは僕もむかしは他人の目ばかりが気になっていた。学校という位相の中で呼吸するにはどうしても、他人の目を気にしなければいけないからだ。

しかし卒業してからは、「気にしないやつ」を目指すことに人生を費やしてきた。トレーニングとして、「ひとと違えばそれでいい」とひねくれ倒してきた。世の中や体制に反発し続けた。みんなが右に行けば左に行き、みんなが泣いていれば笑っていた。

意識すれば変わるものだし、鍛錬次第で本当に気にしなくなってくる。十代の頃と比べるとはるかに「気にしないやつ」に近づいた。「まわりなどどうでもいい」とまでは言わないが、「まわりに左右されない能力」はあると生きやすくなる。

そんな心の持ちようを手に入れることで得たものは本当に大きい。孤独にもめげずに、誰も味方がいないシチュエーションですら、苦にならなくなった。

だけど同時に失ってしまったものもあるのだろうなぁとは思う。その得体の知れない何かしらは、たぶんもう取り戻せない気もする。

しかし嘆くこともない。元々、全部を取ることはできないのだ。「何を捨てて何を取るか」である。そして合ってるかも定かではない。

僕は「自分の軸で生きていく」を手に入れるために、いろんなものを捨ててきたわけだが、果たして正解だったのだろうか。

ただ、学生時代と学生時代以外では、息のしやすい呼吸方は異なるとは思う。これに関しては、そこそこ全員に当てはまりそうなのだ。

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