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なんか起きたらしゃしゃり出てくる

僕の地元は神戸のすみっこにある。神戸市営地下鉄の終点にある西神中央というクソ田舎だ。

ここに高塚高校という公立高校がある。ガガガSPのコザック前田さんや、僕が付き合っていた女の子もこの学校に通っていた。

また、1990年に起きた『神戸高塚高校校門圧死事件』の舞台でもある。

校門で遅刻チェックをしていた教師が、遅刻ギリギリの女子生徒を圧死させたというものだ。高重量の鉄門でだ。

その日も教師は拡声器で「10、9、8・・・」とカウントダウンしていく(神戸はけっこうこの文化がある)。この時、30人近くが校門に殺到してくる。

通用門の内側からスライド式の校門に押し込まれて、女の子は死んでしまった。

生徒が挟まれてからも押し込み続けた教師と同校には強い批判が集まった。

こういう事件があると人間はすぐに「背景」に注目する。やれ、教育の仕組みやら管理主義の問題やらだ。

いろんなひとが寄ってたかって、結果が出た後に言い出す。酒鬼薔薇のときもそうだったが、ポンポン言いだすのだ。
そして90年代には無かったSNSのおかげで、今やとてつもない数の「やれ、◯◯」が地球上に降って湧くようになった。

でもほとんどのことが「背景」なんかよりも、もっとショボい次元のおはなしだったりしないだろうか。

たとえば、高塚高校の圧死事件にしてもそうだ。
小さい子でも「重くて硬いもので人を殴れば死ぬ」ぐらいは分かる。身の回りのひとのケガとか、自分自身の痛みで知っていくものだ。ていうかそこを知らないと、その本人も生きていけない。

ならば大人なら「力一杯に鉄の門を人間にぶつければ大変なことになる」ぐらいは分かりたいところだ。

だが、その教師は幼児以下の生死の感覚しか持ち合わせていない人間だった、というだけだ。

問題は教育の仕組みやら管理主義などではなくて、「そんな人間がどうして教師になれたのか」というところになる。

そして僕は、人が死んでから「大変な惨事が起きてしまった」なんて言うなよな、と思ってしまうのだ。
だったら日頃から、仕組みだの体制だの異常校則について、声を枯らしておけよ、と。何か起きたときだけしゃしゃり出てくんなよ、と。

小学生のときから、コメントしまくる大人たちにそう思っていた。

もちろん高塚高校の事件は、幼稚な人間に教師という名の「権力」を与えてしまったから起きた「事故」だ。その土壌になったのは学校という場所の管理主義だ。

だけど、そんなことは分かりすぎているほどに分かりきっていることなのだ。
僕はそれをいちいち分かったふりして、ウダウダ述べだすおっさんおばはんが嫌いだった。

神戸市はそもそもがむかしから軍隊スピリッツが行き過ぎている。この高塚高校も、遅刻者には校庭罰則マラソンが定めていた、

中学生は丸坊主だったし、教師に蹴り殺された生徒や、殴られて失明した生徒、鼓膜が破れた生徒なんかもいた。

こういうことが起きたら「犯人」である教員がクビになる。そして「一件落着」みたいに落ち着く、という流れは山ほどあった。
そして当の「管理主義」は別になんの変わりも無い。ずっとそれの繰り返しだった。

高塚高校校長の「君たちが後10分早く来てくれていたら、事故は起こらなかった」という迷言に、その本質すべてが集約されている。

凶暴な人間に銃を持たせりゃブッ放すだろうし、脳が萎縮した人間に車を運転させりゃ誰かを轢き殺す。幼稚な人間に教職を与えたら「事故」が起きる。

余談だが、先日ベーシックインカムの是非の話をしていた。
今思えば「業務上の過失が減る」というメリットもあるかもしれない。働かなくていい人間が働かなくなると、いいことの方が多いだろう。





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