辞められない病の悲劇
「今の仕事辞められない」というひとと月間5人は会う。正直狂っていると思っている。
そして「引き継ぎがウンタラ」とか「自分が抜けると現場が困る」など主語が職場である声ばかりだ。
もはや一般常識だと思っているが「退職三ヶ月前に申し出なくてはいけない」などというルールは無効である。労基法が戒めているのはあくまで事業者に対してであり、労働者にそんな義務はない。
「辞めるよ」と言うほうがもちろん親切だが別に無断で今日から行かずとも何の罰則もないし、会社側はそれまでの賃金を支払う必要がある。
進んで迷惑をかけることはよくないが、貴重な自分の時間を三ヶ月も差し出すひとがモリモリいるのに衝撃を覚えている。
もちろんやりたい仕事ならばやったほうがいいのだが、「秒速で辞めたい。でも三ヶ月も捧げる」という行動様式の方が多い。すさまじい自己犠牲スピリッツである。
僕は自分が作った会社を数年前に辞めてしまったこともあれば、自分が作ったバンドも解散させてしまったこともある。
体感としては「残されたひとが困る」なんてことはなかった。他のメンバーたち、バンドなら関係者やファンのひとも含めてだけど、自分一人いなくても、いなけりゃいないで何とでも回っていくものだ。
SMAPやドラゴンボール、こち亀にイチローでさえもが消失しても回っている。どんなに偉大なものでも「失くなったらマジで全体が潰れる」なんてことはない。
特に会社組織が「一人の個人がいなくなったら僕たちは死にます。三ヶ月前に言ってね」なんて貧弱なことを述べているのならば、その会社の生命力に問題がある。すぐ潰れる。
僕の会社に「三ヶ月後に辞めます!」と言う辞め方のひとがいたら「ぜひたった今この瞬間に辞めてくれ!」と答える。
縁を切れない、仕事を辞められない、恋人と別れられない、バンドを抜けられない……みたいな執着は人生を激しく劣化させる。
関わる場所や関わるひとというのは「自分の属性」に他ならないからだ。
たかしの友だち、A社の社員、たかしの彼女、ローリングストーンズのギタリスト。
自らの属している場所にアイデンティティは引っ張られていく。好きでもない場所から紐付いたセルフイメージは否応なしに感情の大事な部分を溶解していく。
嫌なことはさっさと辞めちまうことである。不要なものはさっさと手放しちまうのだ。
辞める根性がないなら飛んだほうがいい。音信を不通にしてしまえばそれでいい。
もちろんそのツケは後から回収しなきゃいけないし、やるのは自分だけど、じつは何億倍もマシであり、案外つらくもない。
それよりも居たくない場所、なりたくない属性を名乗るのは本当にキツイ。
「俺は本当はこんなことやりたくない」と心でボヤいている最中に大事なひとと出会うかもしれないし、運命的かつ重要な出来事が起きるかもしれない。
感情が溶解していると、それらのチャンスはただの風景のように過ぎ去っていく。
ビビッと来るものに鈍感になるし、日々追い求めて探しているものが心にないと、何が素晴らしいかさえも分からなくなってしまうからだ。
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