タイトルを決めるのはいつだって難しい
社会人になると同時に東京に来た。
東海圏からの上京者はわりと少ない印象があったけど、その印象を覆されることはなく、東京には古くからの知人が少なかった。
それでも、週末はやってくる。休日はやってくる。
最初は楽しかった。テレビの中に存在していた都会を散策してまわった。数少ない知人と会って、ご飯を食べたりもした。
けれど、週末の数は思ったよりも多くて、気付けば僕は毎週末、時間を持て余すようになった。
毎週末、楽しそうな瞬間を切り取ってInstagramに挙げている人達を羨ましく思ったし、そういう時間を過ごしていない自分に恥ずかしさを覚えたりした。
そんな僕を救ってくれたのは神様でも、君でもなく、芸術だった。
芸術と向き合うときは、むしろひとりの方が都合がよかった。
いつしか僕はコーヒースタンドに出向いて小説を読むようになったし、シネコンだけでなく名画座のような映画館でも映画を観るようになったし、おもしろそうな企画展を見つけて美術館に足を運ぶようになった。
小説を読むようになって、映画を観るようになって、美術館に足を運ぶようになって、そういう話題で会話を出来るようになって、気付いたことがある。
芸術に触れている人の方が、コミュニケーションが柔らかい人が多い。
良く言えば優しい人が多いし、悪く言えば傷つきやすい人が多い。
なんでだろう?と考えたことがあったけど、答えはすぐに出た。
小説にしても、映画にしても、美術にしても、その作品は誰かの思考を具象化したもの。となれば、それに触れるということは誰かの思考に触れるのと同義だし、その作品に込められた作者の意図を汲み取る行為に繋がるはずだと思った。そういう行為をたくさん経験した人ほど、他人の心に敏感になってもおかしくないと思った。
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三浦春馬が死んだ。
三浦春馬の死に関して、ネット上では憶測が一人歩きしていた。
「過去のネットでの誹謗中傷が原因だったんじゃないか」
「賀来賢人のストーリーは三浦春馬のことを示唆していたんじゃないか」
三浦春馬の何を知ってるわけでもないのに、憶測は憶測を呼んで勝手に拡大していった。
その一方で、
「誹謗中傷してるやつは人を殺したということを自覚した方がいい」
「そういう勝手な憶測は故人に対して失礼だ」
という声も上がっていた。
なんかもう、そういうの飽きたよ。と思った。誰かのマイナスな意見に対して誰かがマイナスな意見をする、そういうのもういいよ。と思った。
そんなの、自分のTLで勝手にやってなよ。わざわざリプや引用RTで言う必要ないよ。
きっと、批判とか誹謗中傷をしてる人は、自分がそんなことをしているだなんて思ってないんだと思う。
ただ、自分の意見を伝えているだけ。自分の中の正義に則って、正義に逆行する意見を正してあげているだけ。
でも、自分の中の正義がみんなにとっての正義だとは限らないことに気付いて欲しい。
いっかい、旅をしてみたらいいよ。って思う。
自分の中の正義なんて、日本で通用しても世界では通用しないことを実感できる。
もっとたくさんの正義に、もっとたくさんの価値観に触れたら、自分の思考を疑うようになると思う。
そしたら、他人の思考にも興味が湧くかもしれない。言葉を発する前に他人の心を思い浮かべるようになるかもしれない。
そんな優しい世界線がいい。そんな優しい世界線であって欲しい。
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人間って難しい。
人の数だけ思考が存在するし、きっとそのどれもが正しい。どれもが正しいからこそ、法律が、ルールが存在する。基準をつくらないと、判断できないから。
でも、その基準って正しいのかな、と思ったりもする。
難しいね。
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iPhoneが日本で発売されて、スマートフォンが当たり前になって、文字を書くことより「打つ」ことの方が多くなった。
何を伝えようとしているのか予測してくれるようになったし、漢字を調べなくても良くなった。
ネットスラングは日々増えていくし、若者言葉はすぐに広まる。
僕は日本語が好きだった。
その多様性が好きだった。
だから、抽象的な概念に当てはめた単語が増えていくのが怖い。
僕の知ってた日本語が日本語じゃなくなっていく気がして怖い。
「なんとなく」で成り立ってしまう言葉が増えていくのが怖い。
言語コミュニケーションは言葉に対する共通認識があるから成り立つものだと思っている。
でも、その共通認識があやふやな単語が増えていってしまったら、その時、コミュニケーションってどうなってしまうんだろうって思う。
認識のズレに気付かない人がもっと増えたら、コミュニケーションってどうなってしまうんだろうって思う。
誤字や脱字を気にしないのも、認識のズレを気にしないのも、あいまいな定義の言葉を多用するのも、相手に負担をかけすぎだと思ってしまう。
自分の気持ちを正確に伝えることを放棄して、相手が理解してくれることに期待しすぎだと思う。
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ミサトさんは「日本人の信条は察しと思いやり」と言った。
でも、今日の日本人は「察し」を求めるばかりで、「思いやり」が無くなっているように感じる。
自分の気持ちを伝えたいなら言葉を知る必要がある。
相手の気持ちを知りたいなら思考を知る必要がある。
芸術に触れてみて欲しい。世界に触れてみて欲しい。
僕は"何か"が変わった。だから誰かの"何か"も変わるって信じてる。
これはエゴだとわかっているし、強要する気はさらさらないけど。
コロナも誹謗中傷も、はやく落ち着いて欲しいと願うばかり。
息苦しい世界線は、もう御免だよ。
誰だって、いつでも、ハッピーエンドを待ってる。
サポートだなんて...そんな... あー、ハーゲンダッツ食べたいなァー!!!!!