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宇佐美寛・池田久美子『対話の害』-話してもわからないのがふつうである-

(追記・補足)
ヘッダーの画像は文部科学省の資料から持ってきました。

https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2017/10/24/1397727_001.pdf

「文部科学省・アクティブラーニング」などで検索すると「対話的な学び」に関連した資料が出てきます。ここでのアクティブラーニングの定義が「学生にある物事を行わせ、行っている物事について考えさせること」であるから、サンデルの方法をそのまま導入してもそれはアクティブラーニングとはいえないと思われます。

https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2015/09/24/1361110_2_5.pdf


(以下本題)
まず最初に本書の公式紹介ページと概要のリンクを掲載しておく。

0. 導入
本書は「ハーバード白熱教室」をきっかけに日本で有名となったマイケル・サンデルの講義形式を批判するものである。本書を購入した書店では「授業づくり」のコーナーに陳列されていた。とはいっても直接的に授業づくりに触れている部分は少なく、本書のほとんどがサンデル批判に費やされているため、かえってサンデルを擁護したくなる気持ちが生まれてしまうくらい、批判の嵐である。白熱教室に対する具体的な批判をここですべて拾うことはできない。以下では、サンデルの教育方法のどのようなところに問題があるのか考えていくこととする。

1. 教師と学習者は対話可能か?
そもそも教師と学習者の立場は対等ではない。教師は学習者の成績を決定するという権力を有している。学習者の答えが気に入らない場合は低い評価をつけることができる(四則演算のような問題と解答が明確な分野ではありえないことである)。このように立場に序列がある関係性の中での対話は可能であるのか、可能だとして教育上有効であるのか疑問である。学習者どうしのディスカッションは立場が対等であるから、気兼ねなく発言できる。教師と学習者は立場が対等でなく、フレンドリーな教師であったとしても逆鱗に触れると学習者の成績やGPAを失うリスクがある(その先の入試や就職に影響が現れかねない)。
対話とは、参加者が同等の権利を有することが必要であると考える。考える時間を十分に与えられ、賛成や反対も自由であり、誰かの意見の途中で質問をしてもいいだろう。サンデルと学習者のもつ権利は同等ではない。対話を打ち切るかどうかは、進行役を担っているサンデルにしか権利がない。白熱教室の題材選びもサンデルがすべて行っており、問題設定の不備を突かれてもサンデルはそれを押しつぶしている(実際、トロッコ問題の類似の題材において、おそらく意にそぐわない解答についてサンデルは話を広げなかった)。対話ができるような環境を整えない人物が権力をもつ「正義」はどこにあるのだろうか。

2. 対話形式が最適な方法か?
対話は、思考過程のごく一部にすぎない。自分の中になにか考えがあり、誰かと話すことで軌道修正したり改善したりするというプロセスを経ることはあるが、対話のみで哲学や倫理をマスターすることはできず、ベースにあるのは自分自身が自分の考えと格闘することではないだろうか。哲学や倫理に関する問いは、ディベートのようにその場で結論を出したり優劣をつけたりする必要はない。サンデルが対話形式の講義をすることはかまわないが、学習者が講義の場以外でも考えるようなしかけを作らなければ、学校は講義でとっさに出す程度の練られていない意見をとりあえず出力するだけのレベルの低い人間を製造する工場になりさがる。例えばトロッコ問題において、複数人の作業員に衝突するくらいなら一人の作業員に衝突する方がましだ、というのは直感的には正しいが、この回答が哲学の本質を突いた直観として質が高いとはいえない。実際、サンデル本人はインタビューにおいて同じトロッコ問題について尋ねられ、以下のように回答している。

小林:皆が知っている路面電車の道徳的ジレンマについて、あなた自身の選択について聞かせてください。路面電車の運転手が猛スピードで進んでいてブレーキが故障している状況です。前方には五人の労働者がいて、そのまま行けば五人とも死んでしまいます。しかし、そこから避ける線路があり、そこには一人の労働者が働いている。あなたはハンドルを切りますか。
サンデル:私は、彼らが誰なのか知っているのでしょうか。
小林:いいえ。
サンデル:彼らが誰かわからないとなるとは、随分と醒めた質問ですね。彼らが誰だか知らなければ、私はハンドルを切るでしょう。
小林:なぜですか。
サンデル:五人の命を救うためです。でも、彼らが誰なのかもっと教えてくれれば、私は曲がるかもしれないし、曲がらないかもしれません。
小林:では、彼らは、あなたの家族や友達以外だとしましょう。
サンデル:それは影響があるかもしれません。
小林:彼らはあなたの家族でも友達でもありません。
サンデル:では、私は曲がります。

マイケル・サンデル、小林正弥『サンデル教授の対話術』

サンデルの回答は学生やその他一般の人のものと何も変わらない。また、サンデルはそう考えた理由を明らかにしていない。サンデルの元の問いは「正しい行いはどちらか」であるから、そのような行動が正しいことを示す必要があるが、それをしていない。サンデルは回答するために出題者(小林)に追加の条件設定を求めたが、サンデルは学生にそのような機会を与えていない。小林とサンデルの間には対話が可能な環境があるが、学生とサンデルの間にはそれはない。すべてサンデルの意のままであり、対話ですらない。これならば、学生同士で自由に意見交換をした方が講義としてより有意義ではないだろうか(大講堂では難しいかもしれないが)。もっと言えば、哲学的な題材は他人と対話するより自己と対話する方がより自由に深く考えることができ、学習としての価値はより高まるのではないだろうか。私は教育法の専門ではないが、授業づくりにおいては教師自身が気持ちよくなることよりも学習者のサポートに注力すべきであると考える。

3. グループディスカッション万能説?
対話形式で学習する際に私が問題になると思うことは、その題材の周辺知識がなければそもそも対話ができない、という点である。トロッコ問題でいえば、哲学者Aの理論を流用するとaという結論が導かれる……という対話のタネは事前に仕込んでおく必要がある。これなしに「一人死ぬ方がまし」程度で思考が止まってしまうようでは教育になっていない。
同じことは、就職活動の選考でもよく用いられるグループディスカッションにも当てはまる。ふつう、何かを話し合う際は事前に議題や参加者が明らかになっており、その問題解決のために下準備をする時間があるし、それに詳しい人が一人もいないという状況はまれであろう。しかし、就職活動でのグループディスカッションは正解にたどりつく必要はないとはいえ、基本的には議題も参加者も周辺知識もわからないまま本番に突入し、それっぽいことをやり、それを評価される。私は、今も昔もグループディスカッションがとても苦手であり、世が世なら障害者認定を受けてもおかしくないほどである。「答えを出すのにはどのような情報が必要なのだろうか」「この人の意見は妥当なのだろうか」と考え始めると何も発言できない。そのままだと先の選考に進めないから、平然と進む議論をぐちゃぐちゃにしたい気持ちを抑えながら頭を使わずに適当に意見を出すしかできなかった。教育業界で考えられている「対話授業」とは、このようなものになってしまうのではないだろうか。どのような力を身に着けるために対話が必要なのかを再考するのは一手だろう。

4. 宇佐美と池田への疑問
宇佐美と池田(主に池田)が用いる論法に気になるものがある。それは「この人は〇〇をする資格があるのか」という論法である。池田は次のように言う。

サンデル氏の授業では、学生に自らの資格を問うという思考は教えられない。氏は、自らの正義を問う資格に全く無自覚である。全く無自覚に、「正しい行ないはどちらか。」を問うている。そう当ていいのだと学生に教えている。正義を問う資格を疑いもしない。
学生は、それが許されると誤解する。自らの不正義を棚に上げて、他者の正義が問えると誤解する。それを真似るようになる。サンデル氏の授業は、学生にとって、悪しき有害な例となる。
これは、悪しき「かくれたカリキュラム」である。サンデル氏には、学生にこのような悪しき「かくれたカリキュラム」を与えているという自覚は、もちろん欠如している。つまり、氏の授業は二重に無自覚なまま行われているのである。

「この人は〇〇をする資格があるのか」という論法は、「権利と義務はセットである」と同じくらい感覚的には正しいが、論理的には誤っている。「資格」の有無でその発言の内容を無効化してしまう意見にはまったく賛同できない。予定に10分遅刻した人が、30分遅刻した人に「遅刻はよくない」と批判していたとして、その批判に説得力を感じないことはしかたないことである。しかし、発言者が遅刻をしているという事実ないしその人に付随する情報は「遅刻はよくない」という意見の正当性には何の影響もしない。「資格」の話を言い換えると「誰が言ったか」で発言を評価していることになる。重要なのは「何を言ったか」ではないのか。

5. おわりに
本書はあくまでも授業づくりの本であるから、サンデルの主張そのものの是非を問うているわけではない。サンデルの主張に触れたい場合は、本書ではなくサンデルの本を読むべきである。私は本書をきっかけにサンデル(『これからの「正義」の話をしよう』および『実力も運のうち』)を読み直したくなったが、サンデルの主張は私にとってはどうでもいい。私は私の、あなたはあなたの哲学をすることが大切なのである。


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