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東浩紀『観光客の哲学』『訂正可能性の哲学』から人工知能などを考える

東浩紀の『観光客の哲学』と『訂正可能性の哲学』を読んだ。

私は過去に『動物化するポストモダン』や『ゲーム的リアリズムの誕生』を読み、内容に納得できなかったりサブカルチャーを好きな人を愚弄しているようにしか思えなかったりしたため東アレルギーになっていた。ある人にこのことを話したところ「最近の本なら大丈夫ではないか、とにかく読め」と言われたため、重い腰を上げて読んでみた。おかげでかなり嫌いからまあまあ嫌いくらいには印象は改善された。この文章では、今回取り上げる二冊の主題から少し離れた、人工知能やビッグデータについて考えてみる。

『訂正可能性の哲学』の後半では、ルソーの思想からはじまってビッグデータ批判を行っている章がある。ルソーは、特殊意志、全体意志、一般意志という概念を導入した。

  • 特殊意志:個人の意志のこと。

  • 全体意志:特殊意志の集まりのこと(集団の意志といってもよい)。あくまでも私的な利害の集まりである。

  • 一般意志:特殊意志の集まりではあるが、全体意志とは異なり私的な利害ではなく公的な利害の集まりである。

単純に考えれば、一般意志とはどのような概念であるかは上述の説明でなんとなく理解できるかもしれないが、具体例を挙げることは非常に難しい。たとえば選挙でリーダーを決めるとしよう。候補者が複数人いて、最も得票した人が選挙で選ばれたことになる。一人ひとりの投票先は特殊意志であり、投票結果は全体意志である。どれだけ個人が公的な基準で候補を選んだとしても投票行為は私的な行為であり、したがってそれ自体は特殊意志の発露および全体意志の要素の一部であると解釈するしかない。
また、統計データも選挙と同様に全体意志を可視化しているにすぎない。データに対して人間がなんらかの解釈を加えることでデータが意味を持ってくる。データはそれ自体何の意味ももたないデータであって、人間が解釈することで意味を持っているように見えてくる(人間が勝手に意味を見出している)。データからいくつもの意味を作り出すことは可能であるから、データの解釈の違いで議論が起こるのは当然である。

ルソーにより一般意志という概念が発明(発見)されたことにより、ただの全体意志にすぎないものを一般意志であるというように解釈することも可能になってしまった。東は、これまでのルソーの読解とは異なる解釈、すなわち一般意志とは「集合的無意識や統計的法則性について語ったもの」(『訂正可能性の哲学』p.215)と読解することにより、落合陽一や成田悠輔らが言及する人工知能民主主義を批判している。

東が提唱する訂正可能性はそれ自体魅力的かもしれないが、『訂正可能性の哲学』ではそれが万能であるかのように書かれており、それはそれで危険な思想ではないかと思える。人工知能民主主義では、たとえば統計的に国民の考えを調べて(私はこれは全体意志であると考えるが、東は一般意志であると解釈している)、アルゴリズムに従い、自動的に政策が決定および実行されるような社会がもし実現できるのであれば、それに不安を抱くのは私も東も同じである。しかし、統計や人工知能、ビッグデータを利用したとしても人間なら(きちんとした政治家なら)「訂正可能性」を見逃さずに訂正してくれるのかというときわめて怪しい。人間はデータや実情に基づかず、活動家や市民団体の声を傾聴してしまい、的外れなことをしでかすこともある(AV新法などがこれにあたる)が、人工知能がevidence-basedであることを仮定すれば、人工知能民主主義ではこのような失敗はしにくいかもしれない。人間への信頼のおき方については、人文系のポジショントークかもしれないが東は楽観的というか、人工知能民主主義に反対することが先に決まっていて、落合や成田の極端な主張がそのまま社会に実装されることについてのみ反駁しており、その間の人間と人工知能との共存的な社会についてほとんど考えられていないように思った。グラデーションの検討がない方が議論としては鋭いのだろうが、批判するのであれば社会実装を多少考慮してほしかった(哲学者や哲学書にこれを要求するのは間違っているかもしれない)。

出版社であるゲンロンや、派生した配信プラットフォームであるシラスに深くかかわる東は、いま日本で最もよく知られた哲学者であろう(千葉雅也と知名度争いをするかもしれない)。『観光客の哲学』や『訂正可能性の哲学』はさぞかし売れたことだろう。いくつかのコメントを読む限り、東や本書に好意的な反応がよく見受けられた。しかし、過去の哲学者の思想の引用などで構成される哲学書である本書を、一般の読者が読めるのか(内容を理解する以前に、文字を追うことができるか)は疑問である。このような学術的なフォーマットで書かれているからこそ、私は批判的な目線で読んだ。ただのエッセイのように人工知能民主主義を批判していたのであれば、そこまで気にならなかったかもしれない。哲学の概念を援用して人工知能民主主義を批判する姿勢がよく理解できなかったのである。

哲学書に触れてこなかった私が、助言をきっかけに哲学書に触れて思ったことは以上である。私は哲学は好きだが、おそらく哲学書や哲学者は嫌いである。概念の操作は面白いのだが、それにかまけている人に好印象を持つことができない。
本書は東信者を中心に好評を博していると思われる。私が本書をおすすめすることはないだろうが、気になる人は手に取ってみてもいいだろう。

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