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『死と生きる 獄中哲学対話』を読む。考える。

作家・哲学者の池田晶子氏と死刑囚陸田真志氏との往復書簡による哲学対話『死と生きる 獄中哲学対話』

一通目の陸田氏からの池田氏に宛てた手紙が衝撃的だった。世間的には凶悪犯と言われている人がこんな文章を本当に書けるのか? と。それはとても論理的に書かれており、内容もとてもわかりやすく、何より彼の内面が美しいとすら感じる。凶悪犯はこんなにも美しい内面を持っているのか? こんな言葉を扱える人が犯罪なんて犯すことができるのか? と。

言葉はその人そのものである。それは例えばテレビでそういった犯罪者たちの言葉を聞いていても、なんとなくその人を表していることがわかってしまう。支離滅裂だったり、不安そうだったり、嘘をついていたり。どんなきれいな言葉を使ったところで、本人の嘘は暴かれてしまう。言葉は正しく並べることが出来たところで、その人の言っていることとやっていることが違えばその人が嘘をついていることなんて簡単にわかってしまうのだから。

だから、この陸田氏についても、そんな言葉を持っていない、そんな言葉を正しく使える人が、人殺しなんかできるわけがないと僕は思い込んでいた。読み進めてみると、彼は、犯罪を犯して、そのやってしまったことの意味について考える中で、本を読み、自分の頭で考え、その手紙を書けるまでに一気に成長したのである。そんなことはあるのか? ただ本を読んだだけで、自分の頭で考えただけで、人は一気にそこまで「わかる」ことができるのか、ある種の悟りと呼んでもいいような状態の自分をつくることが本当にできるものなのか? 驚きを隠せない。

もちろん彼には論理的に考える素質があったのだろう。でも、やっていることは全く持って論理とは程遠いことをしてきた人だ。本人自身も「獣」という言葉で自分を表現しているところもある。それなのに牢獄の中にいながら、本を読み、考えるだけで、本当にここまで人に還ることができるなんて。こんな言い方をすると陸田氏に怒られるかもしれないが、きっと彼はそんなことは気にしないだろう。そもそも、この本ができたのは、そういうことが可能だと大衆へ伝えるために書かれたのであろうから。

この人間の可能性というものの神秘。まさに神秘としか言えないような不思議に絶句してしまう。そして、その可能性を感じるだけで、いま、世の中では、人殺しをする前の彼と同じように言葉を持ち得なく、世の中をうまく生きることができない人たちが多くいる中で、一種の希望となるのではないだろうか。

死刑囚から希望? というと、人に絶望を与えたものにそんなことはできるわけがない、と思うかもしれないが、そういう人は彼の言葉を自分の目で確かめ、自分の心で感じてみてほしい。別に会ったことのない彼を擁護したいわけではなく、また犯してしまった罪についてどうこう言いたいわけでもない。しかし、人は変われるのだ、ということを知ることは、間違いなく、今生きている僕たちが学べることである。

そして、生きるとはどういうことか? 死とは何か? 根源的な存在に対する問いを思い出すきっかけとなる。死を恐れない人に生はあるのか? そもそも、何のために人は生きて、死んでいくのか? 人を殺し、そして、死刑という人によって殺された人にしか語り得ない、死と生の真実がそこにあるのではないかと思う。

真実はいつもやさしい。どんなに不幸と思える人生であっても、人生の意味が死ぬまでわからなかったとしても、真実にはすべてを癒やしてくれる力がある。この本を読んでそんな言葉が思い浮かんだ。たとえどんなことがあったとしても最後の瞬間まで受けとめてくれるのが、真理であり、真実であるのだと。

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