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『小林秀雄 美しい花』若松英輔著

小林秀雄の『考えるヒント』を読んだ後に、この若松英輔氏の『小林秀雄 美しい花』を読み始めた。そして、並行して読んでいた池田晶子の著書をあらかた読んだ後に、小林秀雄の全集を読み始める。そうすると全集を読みながら、この本を読むことになってしまった。池田晶子の本を知ったのは若松氏の本がきっかけだった。若松氏の池田晶子論『不滅の哲学 池田晶子』も読んだ。若松氏の本を読んでいる人なら、なんとなくこういう流れになってしまったことも頷いてくれるのではないだろうか。

全集を読んでいる途中、評論は後でいいかなと思ったりもしたけど、でも、同時に読みたくなってしまう。小林秀雄という人、むしろ、「もの」と呼んだ方がいいかもしれないが、人を「もの」と言うと怒られるかもしれないが、もう彼自身がひとつの芸術作品と言ってもいいのかもしれない。創作者でありながら、自らをも創作してしまった人、そんな印象がある。そんな作品であるような人をわかろうとすることは正直とても難解だ。最初はよくわからなかった言葉も読み続けていればだんだんとわかるようになってくる。それでも、わかるということは簡単ではない。近づこうとすればするほどなぜか遠ざかってしまうような存在。人として見たらいいのか、作品として見たらいいのか、どうすれば彼に近づけるのか、どうしたら彼のような眼を持つことができるのか。そんな眼を持つことができなくても、一眼でも彼が見た世界を見ることはできないのか。そんなある種の願いを込めながら僕は全集を読んでいる。

そんな時に、若松氏の本はそっと手を差し伸べてくれる。決して若松氏の本が簡単なわけではない。わからないところもたくさんある。でも、傍らにいてくれるだけで心強く、そして、小林秀雄の見ているものを垣間見させてくれるような気がする。そして、そんな孤独な作業をしているのが一人ではないこと、そして、同じように感じるものがいる、というだけでも、この道を進んでよかったと思える。まだ全集は途中だが、それでも、もう終わりに近づいて来ている。全集を読み終わった時に感じることをぜひまた若松氏の本を通して、たしかめ合うことができたら嬉しいと思った。たしかめるということは、正しい正しくないを論じることではなく、感じたことを共有するというのに近いのかもしれない。お互い感じた小林秀雄が一つになった時どんな風に見えるのか。その小林秀雄はどう僕たちに語りかけてくれるのか。そんなことができることを願っている。

そして、本の最後に、

小林は今も読まれている。しかし、それはこれまで読んできた人によって読まれるのかもしれない。この本を、これまであまり小林に親しみのなかった人々の手にも届けという祈りを籠めて、世に送り出したい。

と書かれているように、まさにそれが自分であることに、氏へは感謝してもしたりない。おそらく、氏がいなければ、僕は小林秀雄も、そして、池田晶子も読むことがなかったかもしれないのだから。

届けたいという祈りはどこから来るものなのだろうか。僕も誰かに何かを届けたいと思うことがある。でも、本当に届くかどうかなんてことはわからない。それでも、届くことを願って、祈って、大海原のような世の中へと送りだす。でも、もしかしたら、人は届くことを識っているから、あるいは、受け取り側がいるから、届けたいと思う人が現れるのではないかとも思うのである。あらゆるものは誰かのために作られている。それであるならば、本当はその誰かというのが先にあると考えることに何かおかしなことはあるだろうか。

この文章もまた誰かに届くことを願って書いている。でも、誰に届くかわからない。しかし、きっと届くことを信じて。

この本の著者に、そして、関わるすべての人に愛と感謝を込めて。

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