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頭の中に流れているもの(4月3日)

言葉にしないと伝わらない。言葉にした瞬間にたくさんのものが削ぎ落とされてしまう。単純なことだけど、折り合いをつけるのはなかなか難しい。

僕のnoteでは、日記よりはまとまっているけど、それでも論ということはできないような心の中に流れる何かをそのままの形で残しておこうと思っている。

仕事ではひたすらに論を立てるようにしている。ビジネスだから厳密さや齟齬のなさが大切になってくる。全く別の個体である人間と合意という名の一致が求められている。無茶苦茶な話だと思う。家庭や恋愛でも意見を一致させるのはできず、みんなが「価値観の合う人がいい」といって蜃気楼の砂漠を彷徨っているのに、仕事ではなぜかこれができてしまっているような形がある。

これに関してはみんな自分に嘘をついている思うけど、それはそれとしてある種の演劇のようなもので、とりあえずはダンスをし続けている。時々、周りが気持ち悪くなって苦しくなることがある。人間はとても怖いと思う。

スイッチが入ると自分が自分でないみたいに口が回り出すけど、エネルギーが切れると何も考えられなくなってくる。時期的にはエネルギーが切れているのが今だ。目的がある中の無目的さというか、そういうものを目の前に浮かべながら、パソコンの画面を見て仕事をしている。

基本的に全ての人間の全ての経験は尊いものだと思う。それが魅力だし、わかり合う必要もわかり合うこともできない。意味がないと思う。じゃあ何に意味があるのかはよくわからない。よくわからないけど、生きているから時間も流れるし、意味付けしたりしなかったりしながら今日も生きてしまっている。

とにかくモヤモヤしたものはなにかの形にして残しておかないと、発狂してしまいそうだから、仕方なくしている。仕方なくしているけどそれはそれで好きだ。確実に感じ取れるのは自分の中だけだからそこだけはちゃんと信じてやらないといけない。

何が言いたいかわからないけど、今の自分の進んでいる道は、正しいと思う。
いろいろなものを引き受けて、自分で自分の人生を引き受けなくては行けないのは大変しんどいことだけど、むかし初めて仕事を辞めた日のことを思い出しながらなんとかやって来れているような気がする。こんなことを自分に言い聞かせている時点で辛いような気がするけれど、それは頭の片隅に持ちつつ思い出を彷徨いながら自信をつけていくしかない。

ふと出会う見たことない花の名前を知って、少し世界の解像度が上がる。これの繰り返しだと思っている。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。