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10月31日(『日本の弓術』を読んで)

なんだか本を読みたくなって、今は読むべき時だ、という確信があって、前々から気になっていた1冊の本、それは積んである本だったけれど、それを読んで心が打ち震えるという経験が何よりも幸福だ。

ずっと僕がやりたかったこと、「今の自分」「変わらない自分」を文字として書き残すことが、行き詰まっていると感じていた。
文字を書けば書くほど、自我が表に出てきてしまう。
坂口恭平さんは、自分をトンネルだと思っている、と言っていた。
「これはいい文章か?」「誤字脱字はないか?」「読みやすい文章か?」「いいねがつくか」のようなどうでもいいことが、どうでもいいのにもかかわらずどうしても現れてきてしまう。

僕がやりたいのは「純粋に」「書き残す」ということであって、ベストセラー作家になることでもインフルエンサーになることでもない。
そんなことはわかっているはずなのに、無意識の底から自我が表出してしまう。
この営みは、文字を書くということよりも、特に精神的な営みなんだろう。

『日本の弓術』という本を今日は手に取った。
僕が今気がついたようなことが、全てこの本には書かれていた。
弓術、「術」ということは技術ではなく精神性のことを表している。

詳しくは、是非手に取って読んでみて欲しいのだけれど。
つまりこういうことだ。
文章を書く、ということは、つまり、「書かない」ということに等しい。
僕がやりたいこと、本当の意味でやりたかったことはまさにそういうことだ。
僕が文章を書いている時、その瞬間は、書いているかどうかは関係がない。
精神的な「無」に到達して、気がついたときには「そこにある」という状態だ。
文章を書くことの本質は、多分、「そこに文章が存在している」、それを意識するまでもなく、ということなのだろう。

蜂が巣を作った結果、見事な図形、六角形になっているのとかなり近しい。
蜂は合理的だからという理由をもとにあのような形の蜂の巣を作っているわけではない。人間がそれをみて意味づけを施しただけに過ぎない。
蜂に起こっていることもまた、精神的な営みなんだと思う。
「結果として」、そのようなものが出来上がっているという境地、それが文章を書くときの精神性にもつながり、つまり「トンネルになる」ということなんだとわかった。

文章でいくら説明をしたところで、経験しないことには理解できないこともある。それが『日本の弓術』という本には克明に記されていた。


誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。