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子供時代から突如白髪のジジイになった…
みたいな誰かの引用を坂口恭平さんがしていた。
カフカだったか、バタイユだったか。
すぐうろ覚えになってしまうから、こういうのは気がついたタイミングで記録しておかないといけない。
とにかく、それがすごく衝撃的だった。

この不思議な感覚に僕はずっと戸惑っていた。何回か自分のnoteにも書いていた気がする。
子供の頃、公園で遊んでいた記憶が色濃く残ってる。
砂場で山を作ったり、セミをとったり、木に登って怪我をしたり。
その時からもう15年くらいは経つわけだけど、果たして成長、もっというなら、僕は何か変化したのだろうか。

身体という入れ物は変化していると思う。
でも、「と思う」というくらいだ。
鏡を見て、20代半ば的な容姿になっているのを見て、時間の経過を感じるけれど、もうそれすらも納得感はない。
中身の方、魂的な部分は全く変化を感じられない。
公園で遊んでいたあの時から、全くの地続きになっている。

知識はついた、経験はついた、のかもしれない。
でも、僕自身が変わったという実感は全くない。
周りの人々、僕からすれば風景的な外部、はオトナ的に振る舞っている。
少なくとも、僕にはオトナであるように感じられる。
中学生や高校生の時の風景とは全く違う。
だけど、彼らは本当にオトナに変わったのだろうか。
変わったとすれば、いつオトナになったのだろうか。
結構いろんな人に尋ねてみたけど、「そんなこと考えたこともなかった」的な返答しか返ってこない。
なぜみんな不思議に思わないのだろうか。

オトナ的な変化を遂げた風景、現実と、自分の中にある「変わらなさ」みたいなもののズレにとても苦しむ。
自分の存在が揺らいでいる。

そんなことを考えていたんだけど、やっぱり僕の感覚が正しかったのかもしれない。
他に同じことを考えている人がいたことが嬉しかった。

パステル画がとにかく楽しい。
世界はとても広い。人間だけじゃなくて、というよりも多分世界は人間メインじゃない。
足元を見ると虫や草花が生きているし、川は流れてるし、神社は長生きだ。
そういうものを、かつてはたくさん関わっていたと思うんだけど、自分が思っている以上に感覚がすり減ってきているのか、昔ほど見つけることができなくなってしまっている。

そういうものを見れるように、感覚を失わないように文章を書いている。それとパステル画も繋がるものがあった。
そこにあるけど、失われてしまったものをなんとか取り戻すために、絵を描くというのはとてもいいのかもしれない。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。