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3月21日(万年筆を再発見)

僕は毎朝日記を手書きで書いている。日記を書くときは、万年筆を使っている。
万年筆はとても手がかかる筆記具だ。インクを補充しないといけないし、ペン先も手入れをしないと書き心地が悪くなるし、コンバーターはよく壊れるし、手はインクで汚れるし、時間もお金もかかる。
じゃあなんで万年筆を使っているのかというと、単純に好きだからなんだと思う。合理的ではない理由だけど、そういうこだわりもあっていいんじゃないかと思う。

最近、すごく自分ではよくないことだと思うのだけど、万年筆のインクの補充が3週間くらいできていなかった。インクが切れたときは代打でボールペンを使う。これはこれで自分のこだわりがあって、ジェットストリームを使っている。
忙しくて自分に余裕がなくなってくると、やっておかなければいけないもの、特に自分が気分悪くなってしまうことができなくなってしまう。
日記は手書きで、万年筆を使って書くことに僕は意味を見出している。ボールペンで書こうが、鉛筆で書こうが、出来上がる日記に変わりはないんだけど、それはたぶん儀式みたいなものだ。
忙しさを言い訳にして、自分の中の元気がなくなってしまい、やった方がいいことができなくなって、さらに元気がなくなってしまうという負の連鎖だ。今回は3週間くらいボールペンで日記を書いていた。

やっと万年筆にインクを入れることができて、今日久々に万年筆で日記を書いた。ここまで期間が開くと、どうやら感覚がリセットされるらしい。万年筆の書き心地が驚くほど自分に馴染むいいものだった。書くときの柔らかさ、ペン先のしなり、紙の感触、すべてがボールペンと全く違う感触で、もう何年も使っているのに初めて感じるような驚きがあった。もう日記は、万年筆以外ではかけないと思う。

たまには、いつものやっていることをやめてみるのもいいかもしれない。こういう話は、無駄を省くみたいな文脈で使われることが多いと思うけど、自分にとって何が本当にいいのか、好きなのかというものを再発見できることが本質だと思う。そして、「無駄だった」と気がつくのは見方によってはあまりいいものではない(それはポジティブではあるけれど)と思うけど、好きなものをやっぱり好きだと再発見するのはとても幸せなことだと思った。

先に進めなくなったときは、先に進まないというのも大切なのかもしれない。僕は特にそういうところから抜け出すのが苦手だ。
ひとつの出口として、大切なものを大切だと見直すことをすこし考えてみようと思う。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。