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3月9日(コミュニケーションが苦手だ)

論理にこだわるのに疲れてしまった。
自分と相手の話す歩調が合わない時、大抵の場合は前提として持っているものの差が影響していると思う。
歩調を合わせるときは、丁寧に言語化して、何が背景として足りないのかを探って、説明する必要がある。
違う人間である以上、バックグラウンドが全く同じ、という人はゼロなのでこれを諦めずに継続して続けていかないといけない。
テーマがズレる時もそうだ。自分が話したことと違うテーマを相手が掬い上げたときは、議論のレイヤーを整える必要がある。

諦めずに続けていかないと分かっていても、体力と思考のいる作業だ。やはり、疲れてしまうこともある。
それでも1人で生きていくことはできないから、諦めずにやっていかないといけない。

同時に自分に足りないバックグラウンドがあるなら、どんどん補強していきたいと思っている。これは好奇心のなせる技なのだと最近気がついた。多分、他の人よりも相当に好奇心が強いと思う。自分で言うのもよくわからない話だけど、違うと思ったら、瞬間、別の結論を持つこともある。
自分の持っている知識の前提なんてたいしたことがないとわかっているから、捨てるのも早くやったほうがいい。それよりも、より自分の納得できる真理的なものに近づきたいと思っている。
それはとても良い刺激だ。

論理が、他書と理解し合うための最初の武器になる。そこから先、前提を共有したら、論理の外の方が大事になってくるだろう。
論理は橋渡しをすることができても、繋ぐことはできない。シンクロが足りなくなってしまう。

ここまで分かっていても、やっぱり疲れてしまう。こういうことが定期的にやってくる。
多分感情の問題なのだろう。
こういう時、どうしたらいいかまだ僕はよく分かっていない。
最近は、思ったことを全部口に出してみることにしている。そうすると論理のFBも得られるし、明らかに方向が違う場合に、それに気がついて自分の進路を変えることもできる。
でもそれをすると、無意味に嫌われてしまう。そんなものなのかもしれないけど。
ただ僕は、よりよい何かを目指して、それがあるかどうかもわからないけど、少なくとも論理を頼りに毎日生きている。
それを攻撃だと言われたらそうだし、ガッカリした、なんて言われることもある。
でも、誰がの期待を満たす選択をそもそもしていないのだから、受け入れなくてはいけないはずだ。

だけど、やっぱり傷ついてしまう自分がいる。
もっと上手く適当に誤魔化したり相槌を打ったりして、相手の期待を適度に満たして、満たせない部分は煙にまいて、だましだまし毎日をやっていくような生き方もあるはずだ。
ただ僕が僕を許せないという理由で、このやり方でやってきてしまっている。
それがいいことなのか、悪いことなのか、わからないけれど、たぶん今僕は幸せを感じている。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。