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3月6日(みんなバラバラの環世界)

議論の前に、どんなことを思想として前提に持っているかというのは、非常に大事なことなんだなと、最近改めて気付く。

論理で考えて、よりいいものを選択する、あるいは、論理的に考えたいくつかの選択肢を統合して、よりよい選択肢を生み出す、という発想は特に仕事なんかだと当たり前に前提にあると思っていた。
自分で考えた結論は基本的に大したことがなくて、自分以外にもメンバーがいるのであれば、それらの意見をできる限り集約して答えを出す方がより目指すものに近いと思う。

言葉にすると難しそうになってしまうけど、要は、「とりあえず今できる限りの知恵を最大限出して、よりいい選択をして行こう!」ってことだ。
誰が考えたって、特に仕事なんかでは、よりいい選択をし続けていくというのが大切だと思っていて、自分のその考えに疑問を持ったこともなかったし、まさかミーティングの前に「この議論では、みんなで意見を出し合って、より良い答えを出して、より良い動き方ができるようにしましょう」なんて言うことはなかった。

だけど、このことは、経験として誰かに教わったり体験したりする、もしくは「民主主義の本質は知識や経験の共有だ」とか「弁証法って考え方がある」とか「より良い、の定義はなにか」とかそういうことを見聞したり知識として蓄えたり、自分自身で考えたり、且つ、ある程度言語化できていないと、前提として共有はされていないらしい。
具体的にこれだ、という決定的なものはないのだけれど、少なくとも、前提とする何かしらの知識の糸口はないといけない。

ずっと、なんとなくズレを感じて、そのまま社会人になってしまい、26歳がもうすぐ終わるところまで気がつくことがなかった。
環世界、ってそういうことなのか、と改めて感心してしまった。
自分にとっては、誰が考えても同じ結論になる、と思うようなことでも、他人には全くそうは見えていない、ということが様々あるらしい。
自分は自分が思っている以上に人とズレているし、それは多分みんな同じで、当然理解しているだろうなんて言うのは、勘違い以外の何者でもないのかもしれない。僕だって、わからない世界がたくさんあるのだと思う。

そんな違いを理解した上で、どういう環境に身を置いて、どう他者と関わっていくべきなのか、すぐには答えが出なさそうだ。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。