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コーチング

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#蹴球症候群

なぜサッカー選手は“挨拶”をするべきなのか? インタラクションとセンサーの欠如

なぜサッカー選手は“挨拶”をするべきなのか? インタラクションとセンサーの欠如

サッカー選手や、サッカーに関わる人間は、挨拶をするべきだと思ってきた。挨拶をする、という行為は人によっては当たり前の行為であるが、ただ、中にはその感覚が抜けている選手などがいる。

ただこの“挨拶をする”という行為は、何も深くお辞儀をしろとか、目上の人にはペコペコしろとか、礼儀を守れとか、そういううるさいジジイみたいなことを言いたいわけではないことは、先に断っておかなければならない。

いわゆる、

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なぜ「コーチ」という仕事だったのか、なぜ人は仕事を選ぶのか——。

なぜ「コーチ」という仕事だったのか、なぜ人は仕事を選ぶのか——。

どうせなら今世のうちに2種類くらいの人生は歩んでみたいと思っている人間なので、10年後、20年後は何をしているかまったくわからない。でも、今は広く括ると「コーチ」という仕事に必死に食らい付いている。この仕事が持つ価値は何か、なぜ必要なのか、どんな仕事なのか、そういうことを問うていると、結局行き着くのは「自分とはどんな人間なのか」である。

この場合、「(このコーチという仕事を選んで、才能があろうが

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ブラックボックスを省くな。

ブラックボックスを省くな。

生きているだけで、人間は何かを入力し、出力し続けます。しかしある意味で自然に反して、意識的に入力し、その結果としての出力に期待をする場合があります。意識的に机に向かって勉強をするとき、などがその好例と言えるでしょう。もっと広く言えば、「学習」をするとき、あるいは何かしらの「向上」を求めるとき、私たちは「入力」と「出力」の関係を暴こうとします。

『このように「入力」したから「出力」がこうなった』と

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プロットとしての勝利 vs 義務としての勝利

プロットとしての勝利 vs 義務としての勝利

勝利とは何か。自分にとっての勝利と、他者にとっての勝利は何が違うのか。同じサッカーというスポーツに打ち込んでいる者の間でさえ、そこには何かしらの違いがあるような気がしていた。

どれくらい勝ちたいのか?とか、そういう「思いの強さ」みたいなものでは説明できないものがある気がしていて、今回はそれに書いていく。プロットとしての勝利と、義務としての勝利。

結局ふざけていいのか?ダメなのか?——「勝利」を追求すればするほど必ず「楽しむ」に行き着く理由と根拠

結局ふざけていいのか?ダメなのか?——「勝利」を追求すればするほど必ず「楽しむ」に行き着く理由と根拠

サッカーという、ある種抽象的なスポーツの世界にいるからなのかもしれないが、時に「勝利」が邪険に扱われ、また時にそれに相対するようにして、「楽しい」や「幸せ」が邪険に扱われているのを目にすることが多い。そのような論争をみるたびに、僕はサッカーに従事する人間として、大きな危機感を覚える。

上記したように、「勝利」が邪険にされる代わりに「楽しい」が表に出て、逆に「楽しい」が邪険にされる代わりに「勝利」

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サッカー観とトレーニングメソッドに共通する「多様性」の概念

サッカー観とトレーニングメソッドに共通する「多様性」の概念

自然が好きです。ただ、New Yorkの夜の街並みを思い出すと、これもまた異常な美しさを感じるのです。生きていると、全く意識していないタイミングで、大切なことに気が付くことがあります。これまで蓄積していた「点」が一本の「線」で繋がる瞬間は、意図せず訪れるのかもしれません。コントロールできないとも言えます。

New York, 2018

最近は、生きる環境が一気に変わったからか、あらゆることに気

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“理不尽”とは新興宗教である——。スポーツから暴力がなくならないメカニズム

“理不尽”とは新興宗教である——。スポーツから暴力がなくならないメカニズム

減ってきていると信じたいですが、昭和と平成を経て、令和になってもなお、世代が変わろうがなんだろうが、スポーツ(体育)の世界から理解に苦しむ過度に制圧的な指導や、理不尽な訓練、または暴力がなくなりません。これは噂でも幻想でもなく、小さな子供たちのコーチが子供に対して制圧的になんちゃってサッカーコーチをしている現場は、いまだに見かけます。

これは、なぜなのか。

子供たち自身が、その指導に対して疑問

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