見出し画像

【日記エッセイ】「居場所造りボランティア 自由の女神とバカ 2020-09-04 ②」

リンは屋根の上にいる。僕は、屋根の下からリンに向かって「降りてこい、飯食うぞ」と言う。するとリンは「スーちゃん来てる?」と聞いてきた。僕は「スーちゃんはさっき来たよ」と伝える。リンは「スーちゃんを呼んできて」と言った。スーちゃんとは、みんなから慕われていて、年上なこともあって、子供たちのまとめ役みたいな中学3年生の女の子である。僕は「わかった」と言って、センターに戻り、食事中のスーちゃんに事情を説明して、リンが呼んでれるから来てほしいと頼んだ。

スーちゃんはみんなからたまに、お母さんと呼ばれているみたいだ。三条の子供たちのお母さんだ。みんなスーちゃんに話を聞いてもらいたがる。それはこの居場所に居座りついたスタッフにも言えることだし、ここにくる地域のおじさんやおばさんたちも言えることだ。スーちゃんは賢い。人の気持ちに敏感だ。何を言ったら悲しいか、何を言ったら嬉しいかを感覚的に理解している。自虐もするし、相手を褒めたり、いじったりもする。だからみんなから話しかけられる。けど、それだと、自分のことを考える前に誰かが話しかけてくるのかもと思った。そんなことをずっとしている。いつの間にか、自分の人生を他人に捧げる側になってしまってるんじゃないかと思う。みんなからお母さんなんて言われている。バカやろー!まだお母さんじゃないっての。僕はそんなことを考える。僕はそういう時、見えない流れみたいなのがスーちゃんに集まり過ぎているように感じる。だけど、たった今、リンをセンターに戻して欲しいと頼んでいるじゃないか。みんなが言う、お母さん扱いをそのまま享受してるじゃないか。何だよバカやろー。誰がいつ、スーちゃんの1人の部分に寄り添っているんだよ。

複雑で、絡まっていて、一概に言えなくて、考えたら考えるだけ何もできなくて、泣きそうになって、まぁ、仕方ないよなとか言って、普通に過ごして、忘れていく、そんなことが繰り返されている、一度立ち止まれ、死んだっていい、上等だ、僕だよ、僕、僕の話、死んでやれ、スーちゃんが別の顔を持てるように死んでやれ、なぁ、おい、忘れんな。

スーちゃんと一緒に公園に向かう。スーちゃんは屋根にいるリンに向かって「リン、どうしたー、おりておいで、一緒にご飯食べよ、センターにもどろー」と投げかけた。僕が驚いたのが、その時の声色である。聞いたことがないスーちゃんの声。甘く、ゆっくりとした、強さを一切排除した、小さい声なんだけど確実に聞こえる声、胸の奥底を揺らすような声。その声を聞いて、リンの返答はほぼないが、リンがスッと降りてくる。そして、スーちゃんの背中に抱きついた。言葉を交わしていない。何が何だか。スーちゃんの声色がリンの身体に直接訴えたのだろうか。リンに必要だったのは言葉でも意味でもなく声色や身体だったのかもしれない。僕は、あの誰もいない静かな夜の公園でスーちゃんの声色に居合わせた。この世界には言葉でも意味でもなく、声色で動く世界もまたあると思った。僕の世界の見え方は少しズレた。

僕と、リンをおんぶしたスーちゃんと3人で公園からセンターに戻る。夜。22歳のバカと、中3のお母さんと、小学4年の自由の女神が3人で一緒にある場所に帰っていく。この場所は何ですか。3人が向かうこの場所は何ですか。何なんですか。教えていらないです。教えていらないです。教えられた瞬間に帰れなくなるから。訳のわからないままでいいです。訳のわからないままでいいです。3人で帰っていく。言葉は交わさない、ただただ、帰っていく。得体の知れない居場所に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?