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【日記エッセイ】「ヤングケアラー 3つ目の記憶」

小1か小2ぐらいだったと思う。暴れ回る母があまりにもひどい日があった。母は下着姿で床を陸に打ち上げられた魚のようにのたうち回る。母は叫んでいる、言葉ではない何かを叫んでいる。

人は言葉にできないもの抱えているがそれを普段はないことにして生きている。けれど僕は言葉にできないものが叫びとして現れるのを何度も見てきた。この事が関係してか僕は後に現代思想の「差異」という言葉に惹かれる。僕の中では同一性より差異が日常だった。

母はさらに暴れ回り過呼吸になり息が出来ずに痙攣を起こして死に際の魚のようにピクピクしていた。その時、僕には何もできないことが自然と分かった。父が救急車を呼んで僕も初めて救急車に乗った。とにかく、母が死ぬと思った。ものすごく怖くて、悲しくて、どうしよもなかった。救急車の中でタンカーに乗った母の手を握りしめながら泣きまくっていたのを覚えている。

「お母さん死なないで」と何回も言っていた。

今思い返したら夢のような記憶だ。あんまり覚えてないし、その後の病院の感じもあまり覚えてない。

僕はただ母の手を握りしめて祈ることで精一杯だったんだと思う。

詳しくはいずれ書くと思うが、そんな母と再び手を握る日がある。それはずっと先の話で、僕が大学4年生の時になる。

今度は僕が叫び暴れて過呼吸になって痙攣して救急車で運ばれた。母も一緒に乗った。僕は病院のベットの上で泣き叫んだ後、弱々しく横たわっていた。僕の震える手を母は握った。

母もあの時の僕のように祈りながら握りしめたのだろうか。

僕らはどうしてこんなにも切ない触れ合いしかできないのだろうか。僕は母に手を握られながら泣いた。ボロボロ泣いた。

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