見出し画像

有限の文明を生きる思考――加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)評

3・11から三年半。あのとき、福島第一原発が次々と爆発していく映像を目にしながら、私たちは確かに、何かが終わっていくのを体験した。しかしその後、社会の裂け目は慌てて埋め立てられ、穴はふさがれたことになり、私たちは何が始まったのかもわからぬまま、「いまやすべてが収束しつつある」という言説に丸め込まれようとしている。

そもそも私たちはあのとき、何の終わりを目撃したのだったか。同時にあのとき、何が姿を現したのだったか。それが明らかにならない限り、私たちは世界の今後を語ったり、それに適切に対処したりできまい。そしてそれらをふまえた上で、私たちはどのように生きていくべきなのだろうか。

本書は、現代日本の文芸評論の第一人者である著者(山形市出身)が、この問いに正面から向き合い格闘した思考の成果であり、その過程の丁寧な記録だ。著者が照準するのは「技術や産業、事故」。震災の経験は「近代」というありかたそのものに疑義を突きつけた、という捉えかたである。

見田宗介(情報化/消費化社会)やウルリヒ・ベック(リスク社会)、ジョルジュ・バタイユ(不羈の道)、ノーバート・ウィーナー(フィードバック)、吉本隆明(自然史的な過程)など、東西の社会学者や思想家のアイディアを再解釈しながら、著者は「有限性の近代」という時代認識に到達。破局的な原発事故が明らかにしたように、人間の文明は、産業技術も含めすべてが有限だ。では、その上で、我慢や禁欲の道ではなく、自分たちの欲望を肯定しつつ有限性とつきあっていくにはどんな道すじがあるのか。

震災以前は原子力――欲望の肯定を支える産業技術――に消極的に賛同していたという著者。本書は、そんな彼の翻身の記録でもある。今後、消費社会の欲望と両立可能な脱原発の道すじを探っていく際の、欠かすことのできない著作となっていくだろう。(了)

※『山形新聞』2014年11月30日 掲載

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?