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銀の匙 Silver Spoonが問いかける「人生のあり方」

この漫画、とっても好きです。2011年から2019年にかけて連載されていましたね。実写映画化やアニメ化もされたので読んだことのある方も多いんじゃないでしょうか。

この記事では私が「銀の匙 Silver Spoon」から感じた、「人生のあり方」について語ってみたいと思います。

あくまで私の感じたことです。作者である荒川弘さんの込めたメッセージとは異なるかもしれません。ですが、いまの時代を生きていくにあたってとても大切な「問いかけ」を投げかけてくれるのがこの漫画だと思います。

連載中に自分はライフステージが変化しました。結婚し、子どもが生まれ、会社員からフリーランスに。読み始めたときと、いま改めて読むと、また感じ方が違ってくるものですね。

電子書籍で購入していたんですが、これは紙の本で買って本棚に置いておきたい。強制するわけじゃないけど、自分の子どもにもいつか読んでもらいたい、そこから自分なりに「人生のあり方」を感じ取ってほしい。そんなことを感じています。

キーワードは「やり方」ではなく「あり方」。

さて、銀の匙が示唆を与えてくれた「人生のあり方」とは?
ネタバレ成分が多めですが興味のある方は読み進めてみてください。(と言いながら中身は読了した人向けかなー)



01.八軒勇吾は「やり方」に迷いながら「あり方」にたどり着く


主人公の八軒勇吾は進学校の勉強についていけずエゾノー(農業高校)に編入することに。脱落したという「コンプレックス」、逃げたという「負い目」、周りのクラスメイトたちが何の衒いもなく夢を語る姿に対して抱く「引け目」・・・と様々なネガティブを抱えながら高校生活がスタートします。

そんな勇吾は、全く価値観の異なる人々と関わる中でのカルチャーショックに戸惑いながらも、少しずつ自分の人生の「あり方」を見定めていきます。このプロセスを単に「成長」と表現して良いものなのか迷いますね。様々な要因が混じり合った味わい深い物語です。

入学時点の勇吾は「夢とか知ったことか」とか「なんだこの夢持ってなきゃダメ人間みたいな空気は・・・」ととにかくネガティブでした。(実際には夢持ってなきゃダメ人間なんて空気はなくて、単に勇吾がそう感じていただけかもしれませんね。)

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「やりたいこと」「夢」といったモノについて考えをめぐらせるものの、なかなかソコに辿り着けません。5巻の時点でも「やりたいことか〜」と迷っている。

一方で自分のイヤなことは当初から言語化ができていました。(フワっとしたものではありながら)

一巻の時点で「努力が報われないってのはなんかやだな…」と、その感情の背景にある根っこみたいなモノまではたどり着いていないまでも、ザラっとした自分の感情を語ることはできています。

そんな自分の根底にある想いが、学校生活の様々な出来事をとおして「言葉」となって現れてきます。

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自分の「夢」や「やりたいこと」から考えてもなかなか辿り着かなかった。でも、逆に「イヤなこと」「我慢できないこと」から考えていくことで、自分の「あり方」にたどり着く。「やりたいことはなんですか?」と問いかけることの多い世間の姿からすれば真逆なようにも感じますよね。

道筋はどちらでも良いんだと思います。

理想の未来を追いかける「ビジョンドリブン」な生き方も、現実の課題をいかに突破するかに目を向ける「ミッションドリブン」な生き方も、自分の内から湧き出る「好き」や「楽しい」という感情を育てた「熱源ドリブン」な生き方も、どれも正しい。正しいかどうかを決められるのは自分だけ。

勇吾は「ミッションドリブン」な行動原理だったのかもしれません。

自分を内省していくプロセスの中で「ネガティブな感情」に目を向けることで「あり方」にたどり着くことができた。中盤あたりでルームメイトの別府から「何が嫌かを考えてみたら選択が狭まる」とアドバイスされたときには明確に言語化できています。

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(別府のアドバイス。この言葉が出てくる別府スゲぇ。)

12巻では明確に自分の「あり方」が言語化されています。

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「なりたい」と表現しているのですが、これはその瞬間そんな人間であろうと決意する「あり方」だと感じました。

この言葉にたどり着いて以降、行動も「あり方」に沿った「やり方」になっていきます。言葉にできるようになったからこそ、そこから先の行動も一貫性が持てるようになったとも言えるでしょう。

「あり方」がない状態ではどうしても「やり方」に目がむきがちです。「自分はなんでうまくいかないんだろう」「どうしたらもっとうまくいくんだろう」・・・と、この悩みは「やり方」に悩んでいるようで実は「あり方」の課題。

「そもそも、なんでうまくいきたいのか」「うまくいった先にどんな価値を生み出したいのか」「どんな自分でありたいのか」・・・と、この辺りの「あり方」についての問いかけに答えられてこそ「やり方」です。「あり方」が整っていれば「やり方」に迷わない、うまくいくかどうかは分からずとも、少なくとも迷わなくなる。

蹄耕法に興味を抱いた流れも、そんな自分の「あり方」が言語化されたからなのかもしれません。単なる出来事だったのではなく、「あり方」が整うことでセンサーが働くようになったのかもしれませんよね。

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最終巻でも、当然のごとくこの言葉が出てきます。気づいた自分自身の「哲学」を大切に育ててきたのかなと、そんなことを感じます。

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02.あり方を整えるために見逃さない「そもそも論」


さて、勇吾はどうして自分の「あり方」を整えることができたのか。周囲との関係性や起こった出来事、本人が持っていた気質など様々な要素が絡み合っているのでしょうが、ここでは敢えてその中から一つだけに絞って、感じたことをご紹介したいと思います。

それは、「当たり前で終わらせない、そもそも論思考」

勇吾は当初から自分の中に生じた違和感をキャッチしていました。違和感と、そこで発生する自分の感情のザラつきを見逃しません。

答えがすぐに出るわけではないんです。でも、ザラついたことを「自分に落とし込んで」考えてみる。この辺りの思考が鍵だったのかなと思うのです。「自分の感情」に対する解像度はものすごく高いわけではない、でも「自分の感情」がどう動いたのかに目を向ける感性があった。ここがとても大切なことだと思います。

そのザラつきを自分なりに確かめようとしたのが豚丼についてのエピソード。本を読んでなければ完全に食べ物をイメージすると思いますが、当たらずも遠からず。豚肉として出荷される予定の豚に勇吾がつけた名前が「豚丼」でした。

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ある豚が豚丼と名付けられるまで、その豚の飼育を通して勇吾が感じたこと、肉になったあとの豚丼、このプロセスで勇吾が「感じた違和感」と「起こした行動」は、その後の「あり方」を考える大きなキッカケとなったでしょう。

勇吾の思考・行動はいわゆる「普通の価値観」からすれば異端です。

「当たり前」から逸れる行動は「当たり前」に身を置いている人にとって異端と感じさせるもの。それでも勇吾は自分自身の違和感の正体を確かめるべく行動を続けます。

そんな勇吾のあり方は、周りの人にも伝播していきます。思考停止せずに根本を自ら確かめにいく姿勢に触れると、その様から自分に落とし込んで自分なりに考えてみる。そんな内省の伝播が起こります。

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この時点で勇吾の「あり方」はまだまだ整っていない。でも、吉野にとっては「違和感と向き合う」行動を一貫して取っている姿勢から影響を受けているわけです。のちに勇吾を「優柔不断」とも評しますが、「あり方」の面では感化されていたのかもしれませんね。

「あり方」は「憧れ」ではありません。「あり方」の整った人、一貫性のある人に出会うと人は自分自身に意識を向けます。「あり方」の整った人は一種の灯台です、その人の存在を通して自分自身を見つめ直すことができる、その人がブレないからこそ自分自身の「あり方」も再確認できる。勇吾もこの時点で既にそんな存在だったのかもしれませんね。

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主要な登場人物であるヒロインの御影アキやクラスメイト(ライバル?)の駒場一郎も、勇吾の「あり方」に触れることで自分自身の「あり方」を見定めた二人。

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当初の二人は「この世界の価値観」を象徴する存在であるかのように描かれていたように見受けられます。

既にこの世界の中に存在する価値観、その中で自分たちは生きている。言わば「社会」があっての「自分」がある。生まれたときからそれを当たり前のこととして受け取って生きているわけです。「家のため」「家族のため」、そこに自分の存在はありません。

これ、一種の「鎖」とも言えますね。

「鎖」は生活環境によって良くも悪くも培われていきます。良く言えば自分の行動を方向づける、悪く言えば自分の行動を縛る。「あり方」も同じように自分の行動を方向づけるものですが「鎖」との違いは「自分が起点」となっているかどうかだと思います。

「社会」や「他人」によって自分の行動が縛られるのであればそれは「鎖」です。一方で、自分自身の行動を自分自身で定義することは「あり方」です。御影も駒場も、鎖に囚われていました。しかし、それを自分自身の意志で解き放ち「あり方」を見定めていきます。

特に駒場の変化が面白い。

彼は勇吾が抱いた違和感の象徴である価値観を背負って生きている存在とも言えます。農業・酪農とその周りに存在する現実と常識を疑いもしません。エゾノーの中では数少ない八軒の違和感に対して常識をぶつけてくる、言わば「世間の同調圧力」の象徴とも言える役回りになっています。

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だからこそ、彼が最初に抱いていた夢は「自分起点」ではありませんでした。野球が好きなことに間違いはないとしても、その野球と繋がっているのは「他者の課題解決」です。

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常識や価値観を疑いはしないけど、抗ってはいた。でもそれが自分起点でなかったからか、失ったときに何を目指して生きるのかが分からなくなってしまいます。

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一方で駒場自身も「自分のやりたいこと」を問われると素直に答えることができます。内にある火種は消さず、ちゃんと自分の中で抱いていた。

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そして、自分が持っているモノの価値に気づき、「あり方」の実現に向けた行動に移し始める。最終回の展開なんて最初の駒場からすれば勇吾の変化以上に驚きですよね。

ある意味で、勇吾と駒場は同じようなプロセスを経てきたのかもしれません。勇吾の中学時代がエゾノー入学時点での駒場ではないかと感じられました。

「社会がこうだから」を理由にして自分に目を向けずに「努力の方法を間違っていた」時代があり、それぞれ進学競争からの脱落と離農という価値観の揺らぐ出来事を経て、自暴自棄とも言える時期を過ごしながらも、少しずつ自分の中にある「火種」に目を向け始めた。

こう考えると、まったく同じプロセスを勇吾と駒場は経ているように感じます。単にそれが時間差だっただけなのかな?


さてさて、この「そもそも論」を疑うという姿勢。とても大切なことですが社会では容易ならざることです。なぜなら、多くのケースで「共同体の価値観」から逸れる概念は排除されようとするエネルギーが働くからです。

しかし、エゾノーは勇吾を排除しません。そこで「対話」になるのがエゾノーのステキなところ。

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異なる価値観に出会ったときにそれを肯定するわけではなく、スルーするわけでもなく、対話をする。結果折り合えないかもしれない、でもその「対話」は相互理解をしようとするための基本姿勢です。

私たちはどうでしょう。例えば「多様性」って言葉をどう思いますか?

大切なことだと身にしみていながらも、軽々しく使える言葉ではないと私は思っています。この言葉を実践するためには相応の覚悟も必要です。

でも、本気でこれを実現するならばその基本姿勢は「対話」にあるはず。最終的に相手をどうあっても理解できないかもしれない、でも対話を重ねようとする姿勢が次の何かを生み出すんだと、私はそう思います。(だから私は覚悟を持って「多様性」を使いたい)

「そんな良い方向にモノゴトが進むなんて、世の中にはほとんど無い!」とスネることだって出来ます。現実はそうだとも思います。キレイゴトで世の中は変わらないかもしれない。

でも、これは「あり方」の話しです。自分自身がどうあるかは、自分自身で決めることができるんです。「社会がどうか」は聞いていない、「あなたがどうあるか」を聞いているんです。

異なる価値観と出会ったときに自分はどうあるのか、これをとても考えました。



03.子どもに向き合う大人の「あり方」、大人自身の「あり方」


さてさて、この漫画に出てくる大人は皆よい人たちばかりです。特にエゾノーの教師は皆サイコーですね。挑戦に対しても、失敗に対しても肯定的。エゾノー教師陣からは子どもたちに向き合う大人としての「あり方」を考えさせられます。

何よりも、大人自身が「自分の感性」を大切にしている。ここが一番ぐっとくるところ。

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子どもに「夢を持ちなさい」と語る大人の姿は世の中にたくさんあるでしょう。ですが、そんなことを語っている大人自身は夢を持っているのかな?、どうでしょう。

何の衒いもなく「自分の楽しむ様」を子どもに見せる、共に行動する。これこそが「あり方」の際たるものです。自分の思考・行動・言動が一貫しているからこそ、相手と接するときに伝わるものがあるのだと感じます。

よく世間ではティーチングとコーチングの違い、みたいなモノが語られます。教えるのか、寄り添うのかと言われるものです。でも、ここで出てくる「あり方」を見せていく姿勢はこの両者とも違う。ティーチングもコーチングも主体は相手にあります。相手を「どうする」が行動の基本姿勢。

実は、ティーチングやコーチングと比べるとほとんど一般的にはなっていませんが「トーチング」という言葉があるのをご存知でしょうか。

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「トーチ(松明)」ですね。自分自身の姿勢によって、相手が自分のあり方を整えるキッカケとなるという考え方です。

さながらその様子はトーチ(松明)を持って立つ人のようです。ブレずに一貫性を持って立ち続けてくれる人がいるからこそ、自分自身とその人との関係性を冷静に俯瞰したときに自分自身のあり方を整えることができる。

ティーチングとコーチングが相手を「どうする」ならば、トーチングは自分が「どうある」です。「大人だって楽しいことは大好きなんだぜ!」と自信を持って語り、それを行動に移す姿は勇吾たちにとってまさにトーチだったことでしょう。

ちなみに、悪い大人はほとんど作中で描写されていません。多分、普通にこの世界にも悪い大人は普通に存在するはずです。でも、読者の前にその姿が現れることは少ないですよね。(大川先輩の親にちょっとそのニオイを感じる。あとチーズ工房ほわいととか。)

現実には悪意を持って行動する人はあれど、それは勇吾たちの「あり方」には影響していない。物語の本筋ではない。そんなことを感じます。むしろ、そんな社会の悪意に触れたときにそれでも自分の「立ち方」を保ってくれるのがあり方だとも思います。


さてさて、一方で大人自身も悩みます。そして行動に移します。子どもと大人の関係性を捉えたときに必ずしも大人がトーチであるとは限らないのです。

富士先生が猟師への転職を決めた経緯も、子どもたちの「あり方」に触発されて、大人が自分の「あり方」を捉え直す場面とみてとることができます。

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実際、何かを始めるのに「遅すぎる」ことなんて一つもない。自分が「遅すぎる」と思えば遅すぎるのかもしれません、自分が「遅くはない」と思えば何も遅いことなんてないんです。

よく学生の特権として語られる「学生のうちは失敗できる」ってのも変な話しですよね。大人になってから失敗しちゃいけないのか。それは固定観念なんじゃないか。

大人になってからチャレンジしたって、失敗したっていいんです。でもそれは失敗を社会が許していないことと、自分自身も大人になってからの失敗を許していないという、両方の影響によるものだとも思います。

「あり方」の相互作用がここには存在します。そして、その相互作用は場をつくり上げる一人一人のスタンスによって生まれています。エゾノーはそこがとても健全ですよね。

そうそう、エゾノーはとても面白い概念で成立しています。それは「まなぶ、はたらく、くらすがボーダレスにつながる」ところ。

これ、ワークライフバランスなんて言葉のイメージとは対極にある世界観ですよね。ワークライフバランスって「ワーク」か「ライフ」かの二者択一を迫っている感じがする。

でもね、本当はどこの社会もどんな個人も「ワーク」と「ライフ」は地続きなはずなんです。今日仕事でうまくいった自分はライフにそのまま持ち帰るし、ライフで良くないことがあった自分もワークに地続きなんです。単なる「感情」って領域ではなく、相互に価値が行き来しているのがワークとライフ。

蛇足ですが「ワークライフバランス」って言葉は政策として使われ始めたから今の言葉として浸透してしまっていますが、この世界で初期の頃から活動している人は「ワークライフハーモニー」って言葉を使っているようです。コッチの方が本質的だなぁ。

エゾノーは「まなぶ」と「はたらく」と「くらす」がボーダレスに繋がっています。「学び」のための「学び」ではない。「はたらく」と「くらす」を豊かなものにするための「まなぶ」です。

理不尽の権化のような面もありつつですが、この場のあり方はステキだなぁと思うのです。むしろ、こんな場の「あり方」がこれからの世の中で増えていくのかもしれないですよね。



04.親子の関係性に見る、「あり方」での対話


この物語を紐解くうえで勇吾の父である八軒数正との関係性は切っても切り離せないテーマです。数正は物語の当初から勇吾の「敵」のように描写されていました。

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初登場は電話の声:子どもの自由さを奪う「敵としての大人」であるかのように描写されている。

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顔が初めて描写されたときなんて完全に悪役として

しかし、その描写は徐々に変化してきます。

初期は悪役として、中盤以降は乗り越えるべき壁として、終盤には信頼できるパートナーとなっていきます。(最終盤にはお茶目とも取れる描写すら増えてくる)

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私はこの描写の変化を「勇吾にとってどんな存在か」という視点から紐解いたものであるように感じています。

実は父である数正は物語を通して一貫している、特に変化していない。変化したのは勇吾の「あり方」です。「あり方」が変化することで関係性が変わり、関係性が変わることで描写が変化したと、そんな具合に捉えています。

勇吾が父をどう捉えていたかを考えてみましょう。

勇吾と父との会話で最初に出てくるシーンは、学歴について語るシーンです。ですがこのとき数正は勇吾の方を見すらしていません。

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実際にずっとこんな具合で数正は新聞から目を離さずに勇吾に興味を示さないようなシーンだったのかは分かりません。なぜならこの頃の勇吾自体が数正を見て話してはいなかったから。

ここでよく見ておきたいのは事実よりも印象です。勇吾の数正に対する印象です。

「ずっと否定されてきた」・・・と感じているのは勇吾です。実際に否定されてきたのかどうかは分かりません、否定されていたのかもしれません、ただそれは人間性を否定していたのか方法を否定していたのか、物語から伺い知ることはできません。勇吾はそう感じていた、ここでの事実はこれだけです。

そう感じているからこそ、健全な対話ができなくなってしまいます。

エゾノー祭の当日に勇吾が倒れ入院することになってしまったシーンと、実家に帰って御影の勉強をみることを話したシーンにそれが現れています。

勇吾は数正の言葉を「自分を否定する言葉の意」として受け取ります。しかし、よくよく数正の言葉を見てみると基本的には「問いかけ」しかしていません。

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そう、数正の会話の多くは「問いかけ」なのです。

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そこにある意図、想い、意志、本気度、思慮深さ、そんなモノの存在を確かめているようにも感じます。しかし、「自分を否定する言葉の意」と受け取っている段階ではその言葉を正面から受け止められません。ある種の先入観によるものかもしれません。

実家での会話を構図にすると、数正からは「問いかけ」が投げかけられ、勇吾は「反論」を返しているわけです。噛み合うわけがないですよね。

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相手が「自分を否定しようとしている」という先入観から受け取る言葉は、自分を否定する言葉として受け取ってしまう。しかし、一貫して数正は勇吾のあり方を問いかけていたんじゃないかなと、そうも感じるのです。

言葉の裏にある意図を人は勝手に捏造してしまいます。それは相手の印象に左右される。でも、その先入観は健全な対話を阻害していることも多いものです。

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改めて見てみると、数正の言葉の多くは「問いかけ」であることが見て取れますよね。それも、相手の「本質」に切り込むような問いかけです。半端なあり方では論破されてしまうのも仕方ない。

余談ですが、勇吾の兄である慎吾も父親に対する誤解や先入観が当初はあったかもしれません。東大に受かって辞めたことを「メンツを立てた」と表現しています。これも先入観や対話不足から起こったことなのかもしれませんね。

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ただ、勇吾が真正面から自分に向き合うようになり、数正も向き合い方を変化させます。先に挙げた勇吾の反論は会話としては噛み合っていない。でも、そこにある本気の想いは感じ取れた。その後、数正が自分で言っていたことですが「本気には本気で返す」スタンスです。これが数正の「あり方」ですね。

だからこそ、「あり方」を整えようと行動する勇吾にとって数正の姿勢はトーチでもあったはず。トーチと感じられるように勇吾自身が変化したとも言えそうです。

もしかすると受験競争に負けずそこそこの学歴を獲得した別の世界線があったとしても、勇吾の「あり方」が自分起点になっていなければ数正の接し方は変わってなかったかもしれません。

数正は不器用ではあると思います。でも、一貫性があります。だというのに物語が進むまでは健全と言い難い関係性だった。

彼ら親子に不足していたものはとにかく対話でしょう。

圧倒的な言葉不足。対話がなければ子供の好きもキャッチできない。親のあり方もキャッチできない。数正からすれば「あり方」の整っていない相手との対話自体が無駄なことだったのかもしれません、そのあたり不器用だなぁ。

まぁ、途中うまく関係性が構築できなかったことをどちらかの責任に押し付けるのも何だか違うなぁと感じます。お互いがどうあるのか、家族とはなんなのか、誰もが永遠に悩んで悩みながらも何かしらの答えを自分たちなりに出しているテーマなのでしょう。

この親子の関係性、数正のあり方をそのまま真似したいとは思いませんが、一人の親としてとても考えさせられるものです。最後に辿り着いた関係性は理想的とすら思えます。

だからこそ、親になってから改めて読むとこの漫画の味わいが変化するのです。



05.自分だけの銀の匙をつくること(誰かから価値を受け取り、誰かに価値を届ける)


11巻で校長が「銀の匙」を作った人の気持ちを問いかけるシーンがあります。このシーンからは色んな意味を感じ取ってしまいます。(拡大解釈かも)

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自分が持っている「銀の匙」は誰かの想いによって作られたもの、その想いを受け取って今の自分がいることを感じてほしくてこの問いかけを投げかけているようです。しかも毎年ワンパターンで。笑

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校長は「銀の匙の心」と表現しました。では、あなたにとって「銀の匙の心」とは何なのでしょう?

きっと、誰もが持っている銀の匙は人それぞれ姿カタチが違っているはずです。育ってきた環境や人間関係だったからこそ、いま自分が持っている銀の匙になったはずですよね。

だから、あなたの持っている「銀の匙の心」は誰かの生み出した価値が起点になって出来ているのです。それを自分なりに組み合わせて、磨き、想いを載せることで「自分だけの銀の匙の心」ができあがります。

誰かから受け取ってきた価値も、自分自身が持つ想いも人それぞれ。だから、銀の匙の心は一人一人にオリジナルです。当たり前ですよね。この「一人一人にオリジナルな銀の匙の心」が、誰かへの価値提供に繋がります。誰かの心にピタっとハマるのです。

自分自身にとっては「当たり前」でしかないことが、実は他者にとっては「大きな価値」になる。これが「社会の価値提供」の姿として面白いところ。

勇吾だけが持っている銀の匙、駒場だけが持っている銀の匙、それぞれにとっては当たり前のことかもしれないのですが、その当たり前が誰かにとっては価値になるのです。自分が持っているものに目を向ける、そこから気付くことだって山ほどありますよね。

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自分が誰かに価値提供できるのは、そのまた前にいた誰かの価値提供によるもの。しかし、誰かの価値提供は自分の内に取り込まれることで加工・融合・再編集され自分だけの価値になる。

常に自分たちは価値を提供する側であり、同時に価値を提供される側である。ここを実感し出すとお題目ではない「感謝」で世界が成り立っていることにも気づきます。

決して単なるキレイゴトではない、社会を成り立たせている一種の原理原則と言えるはず。



06.あなたはどんなポイントから銀の匙を読んでみますか?


と、自分が面白いと感じた銀の匙 Silver Spoonの要素をダラダラと書き連ねてみました。

でもね、実はまだまだ語り足りんのです。色んなテーマからこの物語を見渡してみると、まだまだ掘り下げ甲斐のある要素が眠っているんです。例えば以下のテーマあたりでもっとこの物語を読み解いてみたい。

・関係性で成立する社会
・対話
・異なる価値観との出会い
・自己決定性
・あたり前を捉え直す
・モノローグがないコマの心理描写の面白さ

何かのポイントに絞って読んでみても面白い。何も考えずに読んでも面白い。噛めば噛むほど味の出るスルメイカのような漫画。人生に迷ったときに読み返したい「碇」のような漫画だなぁと感じています。

私は小学館のマワシモノでも何でもないですが、改めて全力でオススメしたいと思います。みなさん、銀の匙を本棚に置いておきましょう。(ダイレクトマーケティグ)

【画像引用元】銀の匙 Silver Spoon 荒川弘/小学館


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