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“よい“教師になりたい!と考えて行ってきたこと

20年以上教育に携わってきて、ずっと私は「よい」教師を目指してきました。
なかなかこれが難しくてどういった教育を実践することが「よい」ことなのかわからなくなっている期間が多かったように思います。そんな私が感じた「よい」教師像について書かせていただきます。最後まで読んでいただければ幸いです。

私の考えるよい教師の結論

早速ですが、私の考えるよい教師は次のとおりです。
① 子どもに育成させたい能力像を明確にもてる
② ①の能力を効果的に育成するカリキュラムを考えることができる
③ 子どもの話をよく聞き、その子に合わせた学習環境を提案することができる
詳しく書いていきます。

①子どもに育成させたい能力像を明確にもてる

当たり前なのかもしれないですが、教師がもつべき重要なビジョンだと思います。
こういうことを書くと「どういうこと」とか言われそうですが、「教科書に書いてあることを10年後のその子が役立てるとしたらどういう力をもつべきかを考えること」だと思います。
私が駆け出しの頃、学習指導要領は今よりももっとボヤッとした書き振りでした。学習指導要領とは文部科学省が提示している学習の内容を定めた文書です。それこそ全部読むと何百ページ、何千ページ(言い過ぎか?)にも及ぶなかなか読み応えのある文書です。20数年前はとっても小さな本でした。今ではA4版のとても大きな書籍へと変貌しています。厚さも何倍にもなりました。
では、この中の内容を子どもが学んだとして、10年後その子がその力を生かして何をできるようになるかを描いているでしょうか。
私が駆け出しの頃は、もうそれこそその日を生きるので精一杯でした。今もそうかもしれませんが、、、。ですから、教科書会社が作成した指導書に基づいて学習内容を展開していました。でも、ある時に気付いてしまったのです。卒業して大きくなった子どもの口から「先生から教わった(教科)の(スキル)が今でも役立っています」という言葉を聞くことがないことを。
私は何を教えているのだろう。と素朴に感じました。
確かに知識としての学習内容を「伝えている」ことはしていると思います。ですが、子どもが10年経って社会で闘うための能力を育てていくことができていなかったことに。
それから私は「子どもが10年経っても使える力を付けさせよう」と躍起になって考え、今の授業スタイルになってきました。
こうした考えを伝えると「それは分かるけど」とよく言われてしまいます。

効果的に育成するカリキュラムを考えることができる

私は恥ずかしながら特別支援学級の担任をすることがなかったです。
ですから、通常学級で40人近くを教えることに比べたら、特別な支援を要する子どもを少数抱えて授業を進めることは容易いことと誤解していました。
私は愚かでした。
最近になって、ありがたいことに支援学級の担任をさせていただく機会を得ました。
すると、とてつもなく難しい事実があることが分かりました。
そもそも、5人なら5人、7人なら7人の子どもの特性が違うのです。
特性というのは学習をする、集団生活をする、コミュニケーションをとるといったこうしたことについての「難しさ」「やりづらさ」と考えるとよいでしょうか。
全員それぞれの特性が大きく違うため、教える際に一人一人の特性に応じて学習を提供していくとが求められるのです。こうした事実を私は知らないでいました。
こうした時に、その子にあった学習の課題とそのクラスや学年に応じた学習内容と進め方がとても複雑多様に必要になることを知りました。
そうして私は自分のクラスの授業では同じような学習内容としてもそれぞれの特性の幅を吸収できるようにしました。
「みんな違ってみんないい」
そんな授業スタイルを実践することができるようになったと考えています。
そう考えていくうちに私はふと思ってしまったのです。
「あれ?通常学級にも実はこうした子どもたちが潜在的に存在していて、『分からなさ』を訴えている子どもに十分な手を差し伸べられていないのでは」
現在、教師がどんどん少なくなっています。
大きくは成り手の減少もあります。また、成り手の減少に伴って業務が増加し続け耐えられなくなって辞めていく現状もあります。
こうした事実は、カリキュラムを考え再構成する能力の必要性をさらに高めているようにも思えますが、皆さんはどのように考えるでしょうか。

子どもの話をよく聞き、その子に合わせた学習環境を提案することができる

これは前述の文章にもつながる話です。
現在では、WISC検査や知能検査というものが充実しています。保護者と本人の同意があればこういった検査を行って実態の断片を掴むことができるようになってきました。
ですが、数値的に分かってもそれをどのように学習環境に落とし込むかは教師の腕の見せ所です。
実際、私は「この子は学習ができるかな」と感じていた子が検査によって大きな「学習に対する辛さ」を抱えていることを知ったことがあります。こういう分かり辛さや学び辛さをどのように教師はキャッチすべきでしょうか。
私はそれこそが教師の子どもの声を聞き取る力だと考えています。
どこぞの首相のように「(都合の良い話だけ)聞く力」とは違います。
そもそも分かり辛さを呈している子どもは何が分からないかを発することそのものに難しさを抱えています。それをどのように導き出し、「これならできる」を具現するかが重要です。
私は、そのために細かく学習させることをしてきました。
まずは、大量の学習内容の中からカリキュラム上必要な要素をもっているものをピックアップしていきます。ピックアップされた内容に取り組んだ子どもはできるかできないかを自己判断できれば良いです。しかし、それができずに唸ってしまっている場合もあります。どういうアドバイスが必要か。どのようなアシストを求めているか。もしくはそれらのうちの何を選択するかを子どもが分かるようにしてあげます。最近では、そこにテクノロジーのアシストも上手に入れる必要があることも付け加えておきます。
こうした子どもの能力を見極め、できることとその幅を広げてあげることこそが重要ではないでしょうか。合わせて、学校の教師が苦手としているテクノロジーについても多くの知見を得る努力と取り入れる度量を教師はもつべきだとも思っています。

最後に

ここまで読んでいただきありがとうございました。
私は、教育こそ大切な国の礎であり、人の社会をよりよくするための根幹だとも思っています。ですが、日本の社会ではどうしても教育は後回しにされがちです。経済や軍事力も確かに必要です。ですが、それを扱う人を育てることを第一にしなければ国はどんんどん弱くなっていってしまうのではないでしょうか。
私は、中学生の頃、数学を初めて楽しいと感じたことがありました。それから理系の学習にのめり込んでいきました。多くのスキルを必要とする理系の学習を楽しいと思えたのはその先生からの教えがあったからだとはっきりと自覚しています。私にとっては30年以上たった今もそのことを鮮烈に覚えています。実は、私は小学校まで算数がとてつつもなく苦手でした。ですが、これを境にわかるようになって来ました。技術大国、科学大国ともてはやされた時代は、こうした学びを多くの人が多くの場面でできたからです。
これからの日本の社会はまだまだ絶望に沈んでいるわけではありません。まだ、たくさんの若い人がいるからです。絶望を希望に変えるそんな教育を私はもっと広げていきたいと切に願っています。

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