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西欧の「軍事革命」の研究を通じて見直されてきた戦争の世界史

軍事革命(military revolution)は、軍隊が用いる戦略、あるいは戦術に抜本的な変化が生じたことで、西欧の国家と社会のあり方に長期的な変動があったことを主張する学説です。

もともと、イギリスの歴史学者マイケル・ロバーツ三十年戦争(1618~1648)でスウェーデンが軍事的に台頭した理由を説明するために使った用語ですが、ジェフリー・パーカーにより、近現代の世界でヨーロッパの列強が覇権を握るに至った要因を説明する目的で再定義されました。彼が1988年に出版した著作『軍事革命;邦訳 長篠合戦の世界史:ヨーロッパ軍事革命の衝撃 1500~1800年The Military Revolution: Military Innovation and the Rise of the West, 1500-1800』では、1560年から1660年に進んだ砲兵の技術革新による軍隊の火力向上が、組織構造と作戦行動を変え、それがヨーロッパにおける国家体制の近代化へ繋がっていったと考えられています。ただ、パーカーの解釈は学界でさまざまな批判を受けました。

例えば、イギリスの歴史学者ジェレミー・ブラックはパーカーを批判した一人であり、単一の軍事技術の革新に要因を求める解釈に反対しました。パーカーは16世紀に始まった火砲の革新が、ヨーロッパの軍隊の制度と運用に画期的な変化をもたらしたと想定していましたが、ブラックはパーカーがその重要性を過大に評価しているという立場をとり、『軍事革命?:軍事的変化とヨーロッパ社会 1550~1800(A Military Revolution?: Military Change and European Society 1550-1800)』(1991)では1550年から1800年にかけて、連続的に変化の度合いが大きくなっていったことが論じられています。アメリカの歴史学者クリフォード・ロジャースが編集した『軍事革命論争(The Military Revolution Debate)』(1995)では、パーカーとブラックのそれぞれの研究成果を取り入れることによって、近世以降のヨーロッパの軍事史には、小さな変化が積み重ねられる時期と、大きな変化が生じる時期の両方があったという折衷的な解釈を取り入れています。

1996年にアメリカで開催された軍事における革命(Revolution in military affairs)に関する研究会議で軍事革命の概念はアメリカの国防改革の論争でも参照されるようになったことで、その意味はさらに拡大して解釈されるようになりました。元来、軍事革命は政治や社会に長期的、恒久的、画期的な影響を及ぼす軍事史上の出来事を意味していましたが、その会議では軍隊の作戦運用や組織構造を見直し、直面する政治的、戦略的な問題を解決する個別の技術革新を意味する軍事における革命も調査対象としました。

その研究成果はアメリカの歴史学者ノックスマーレーが編集した『軍事革命のダイナミクス;邦訳 軍事革命とRMAの戦略史:軍事革命の史的変遷1300-2050The Dynamics of Military Revolution: 1300–2050』(2001)としてまとめられており、先に名を挙げたロジャースも14世紀のイングランド王エドワード三世の軍制改革に関する一章を寄せています。この著作は、それまでの軍事における革命で一般的に想定されていた技術だけで戦いの形態が決まるという前提に疑問を投げかける上で一定の意義があったといえます。新たな武器や装備を採用するだけでは大きな変化に繋がらず、軍隊の組織構造や運用方法を包括的に変えることが重要であることが示されました。

軍事革命の論争を巻き起こしたパーカーは、このような論争の成り行きに疑問を感じていました。彼は軍事革命という概念を近現代の西欧列強の軍事的な優越性の要因を明らかにする目的で使っていたので、それが目的外に使用され始めたことに対応する必要に迫られました。そこで、1995年に「西欧式戦争(The Western Way of War)」という概念を設定し直した上で、軍事革命論の中で得られた研究成果を再構成しました(Parker 1995)。

新しいパーカーの解釈によれば、西欧式戦争の特徴として挙げられるのは、厳格な規律と技術力を備えた軍事組織を、公民としての自覚を持った歩兵で編成し、敵に対して決戦を挑むことであり、これはベトナム戦争でアメリカが軍事的に失敗するまでは、圧倒的に有利な戦い方であったとされました。ただし、パーカーは非西欧式戦争がどのようなものであるのかについて十分に説明しておらず、西欧式戦争という概念の規定の仕方にも疑問の余地がありました。

Parker, Geoffrey, 1995. Introduction: The Western Way of War, in Geoffrey Parker, ed. The Cambridge Illustrated History of Warfare: The Triumph of the West. Cambridge: Cambridge University Press, pp. 2–9.

2000年代以降の研究では、西欧に戦争を遂行するための独自の組織構造、軍事技術、運用形態があり、それらが先駆的な発達を遂げたことによって台頭が可能になったという解釈に重大な欠陥があることが明らかにされています。

例えば、アゴストンの著作『スルタンのための大砲:オスマン帝国の軍事力と軍需産業(Guns for the Sultan: Military Power and the Weapons Industry in the Ottoman Empire)』(2005)によれば、ヨーロッパで軍事革命が本格的に始まったとされる16世紀に、オスマン帝国はすでに大規模な常備軍を整備しており、火器の運用も始まっていました。攻城戦で大口径の火砲を運用できる後方支援能力があったことは注目すべき点であり、これはオスマン帝国が火器を自国で製造できるだけの体制を確立していたことを意味します。

ロージの『アジアの軍事革命:兵器から見たアジア史The Asian Military Revolution: From Gunpowder to the Bomb』(2008)もヨーロッパで火器が普及したことによって、軍隊と国家のあり方に革命的な変化が起きたという歴史解釈の妥当性を疑問視している研究であり、火器の普及に関してはアジア諸国がはるかに先行していたことを比較史の方法で明らかにしています。ヨーロッパにおける軍事革命の特徴と見なされてきた火器の発達、軍隊の官僚化、徴兵制の整備、国家の徴税機構の発達はアジアにおいては「近代的」なものではなく、いずれも中国やインドで先例がありました。近現代における西欧の軍事的な優越性を技術の水準で説明することの限界が改めて浮き彫りにされています。

歴史学者のトニオ・アンドレイドの『火薬の時代:中国、軍事革新、世界史における西欧の勃興(The Gunpowder Age: China, Military Innovation, and the Rise of the West in World History)』(2016)は、16世紀から17世紀にかけてポルトガルやオランダが東アジアに艦隊を送り込み、市場の開放を要求してきた際に、明がこれを軍事的手段で撃退することに成功したことを示し、中国史においては18世紀の後半までヨーロッパが軍事的に優位に立つことがなかったという解釈を打ち出しています。明軍が運用した火器には、ヨーロッパ人と交戦できるだけの十分な性能があり、先進的な技術開発も活発に行われていました。

これらの研究成果を踏まえれば、パーカーが考えていたほど西欧式戦争には実質的な優位性がなかったと考えるべきでしょう。軍事革命が覇権の獲得に繋がったという説明が成り立たないとすれば、むしろ、特別な軍事的優位を持っていたわけではない西欧の列強が、どのようにして世界各地で勢力を拡大することができたのかという問いを立てる必要があるのかもしれません。

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