見出し画像

【翻訳資料】極寒の中で戦う過酷さを語る「ロシアにおける戦闘に気候が及ぼす影響」(1952)

以前投降した「【翻訳資料】軍事地理でウクライナ戦域の特性を解説する「ステップにおける戦闘」(1951)」が予想した以上に多くの方々のお役に立ったようで嬉しく思います。ただ、こちらの資料では気候の影響、特に冬季に特有の寒さの影響についてあまり詳細に取り上げていないという限界がありました。

軍事地理の観点から気候が戦闘の経過に及ぼす影響を知りたい方は「ロシアにおける戦闘に気候が及ぼす影響(Effects of Climate on Combat in European Russia)」の方が参考になると思います。こちらも独ソ戦(1941~1945)に従軍したドイツ軍の将官らが1952年2月付で提出したアメリカ軍の研究資料です。

元の資料をダウンロードできるようにしておきましたので、もし興味があり、また英語ができる方は一度ご自身でご覧になるとよいでしょう。

研究の目的は、季節の変化が軍隊の行動に及ぼす影響を作戦、戦術の観点から考察することです。現代の研究者であれば、さほど目新しい内容ではないと感じられると思いますが、現地でその寒さを直に経験した軍人だからこそできる記述もあり、一般の読者にとって興味深い内容が多いと思います。一読すれば、いかに冬季戦が過酷なものであるかが分かると思います。

日本の地理教育で使われているケッペンの気候区分に従うと、独ソ戦の主要な戦闘のほとんどが亜寒帯湿潤気候の地域で発生していたと言えます。この種の気候では、夏と冬の気温差が大きく、冬に莫大な降雪量が観測されることが分かっています。1941年に開戦した当初、ドイツ軍はソ連軍に対して甚大な損害を与えることに成功し、モスクワに向かって快進撃を続けていましたが、1941年12月に猛烈な寒さに見舞われ、凍傷で多くの兵力を失いました。

冬の寒さは年によって大きく変動するものですが、この資料では1942年1月の平均気温は摂氏-35度だったという記述があります。これほどの低温だと30分の外出であっても危険があり、手足に凍傷を負う恐れがあると考えられます。特に興味深いのは、日中と夜間の気温差が大きい3月が特に危険だったと指摘していることです。その理由は日中に敵との戦闘で激しい運動を行った兵士が汗で湿った靴、靴下を履いたまま夜を迎えると、野営で深刻な凍傷を負うことがあったためです。車両行進の危険も記されており、身動きが取れない車中で兵士の血行が悪化すると、それで凍傷を負う恐れがありました。このような過酷な環境で部隊が戦闘力を維持するためには、指揮官が部下の健康状態をよく監視しておく必要があり、特に足指の凍傷を防ぐために靴下を頻繁に交換させるべきであるとの助言も記されています。

また、豪雪の中で露営し、夜を明かすことが非常に困難な気候であったために、戦闘部隊の戦術行動でも既存の建物の支配をめぐって激しい戦闘が繰り広げられたことも指摘されています。ドイツ軍から集落を奪取することに失敗したソ連軍がやむを得ず平野で露営することを余儀なくされた結果、寒さによって多くの兵士が著しく衰弱した事例などが報告されています。このような知見に興味がある方は以下の翻訳資料をご参照ください。原資料の「はじめに(Introduction)」の一部分を訳出したものであって、全訳ではありませんのでご注意ください。


ロシアにおける戦闘に気候が及ぼす影響(1952)

武内和人 訳

 ヨーロッパに占めるロシアの領土のほとんどは北極圏の南方に位置しており、突然に冬が始まり、5ヵ月から6ヵ月ほど続く。秋の泥濘期が終わると、晴天の時期は長く見積もっても1ヶ月しかなく、大兵力が参加する作戦を実施するにはあまりにも短い。特に北部地域では12月になるとすぐに凍結と降雪で作戦行動が妨げられる恐れがある。

 ロシアでは地域ごとに雪の降り方が大きく異なっており、北部と中部では、南部よりも積雪量が多い。1942年の末から1943年の初めにかけての冬季の例を挙げると、ドン川の下流域とドネツ川の流域で初雪が降ったのは12月の中旬になってからであり、冬を通して部隊の移動に支障をきたすことがなかった。同時期のドン川とドネツ川の中流域からハリコフまでの地域では、18インチ(45.72センチメートル)以上の積雪が観測された。北部では3フィートから4フィート(0.91メートルから1.21メートル)の積雪が当たり前であり、装輪式の車両は除雪された道路でなければ移動できず、渓谷や窪地には大きな雪溜まりができた。乗馬した部隊も、徒歩で行動する部隊も、路上でないと移動することは難しく、路外を行軍するにはオートバイ(全地形対応)を使用しなければならない。雪深い場所では、戦車やその他の自動車でさえも除雪された路上でしか移動できない。

(中略)

 ロシア南部のステップでは、中央ヨーロッパ以上に冬が長く寒く、北極圏の南方におけるロシアの中部、北部と大きな違いはない。ただし、黒海の沿岸部では年間降水量の3分の2が9月から3月までに観測されるので、そこは地中海性気候に分類される。

 1941年の末から42年の初めの冬は、ロシアでも非常に過酷な冬だった。モスクワの北西部地域で1942年1月の平均気温は摂氏-35.5度(華氏-32度)であり、1月26日にはロシアとの戦争の全期間を通じて最低気温となる摂氏-52.7度(華氏-63度)が記録された。同時期にロシアの南部でも記録的な気温の低さが観測されており、その変動幅は摂氏-30度(華氏-22度)から摂氏-40度(華氏-40度)であった。翌年に観測されたこの地域の気温の変動幅は摂氏-25.5度(華氏-14度)から摂氏-40度(華氏-40度)だった。

(中略)

 降雪地では目印となる地形、地物が雪に覆われているため、正しい方向に向かって進むことが困難である。遠くから集落を判別することも難しく、高台に建てられた教会あるいは教会の尖塔が、そこに居住地があることを示すただ一つの目印になることもしばしばである。もし、そのような目印が見当たらないときは、鳥の鳴き声が聞こえてくる森林を探すことによって、その付近にたいてい村落を発見することができる。現地の農民は冬越しのために前もって物資を蓄え、それらを地面に埋めており、冬の間は外界との接触を完全に断っている。

 寒気は兵士と武器の能率を低下させる。1941年12月上旬に第6装甲師団はモスクワの市街地から14.48キロメートル(9マイル)、クレムリンから24.14キロメートル(15マイル)の位置に前進したが、気温が摂氏-34.4度(華氏-30度)に急激に低下したこと、さらにその後のシベリアから来援したソ連軍の部隊に奇襲されたことによって、モスクワへの進撃は失敗した。寒さに凍えたドイツ軍の兵士は銃で目標を照準することもできなかった。極寒の中では銃の遊底が動かないので次弾を装填できなくなり、また発射の際に銃弾を撃発する撃針部が破損した。機関銃には氷がまとわりつき、潤滑油が凍結し、給弾ができなくなった。深い雪の中に落下した迫撃砲弾は爆発音こそ空しく轟かせるが、何の効果もなく、埋設した地雷も正常に作動しなくなった。秋季の泥濘でドイツ軍の戦車は10両に1両しか使えなくなり、残存している戦車も履帯の接地面が狭すぎるために、雪の中に入ると移動できなくなった。当初、ドイツ軍の部隊は手榴弾によってソ連軍の攻撃を遅らせていたが、数日後には村落や農家に構築された陣地は包囲されるか、あるいは侵入を許した。

ここから先は

3,155字

¥ 200

調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。