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つけ麺短歌先生

小学生の頃から塾で過ごす時間が長かった。

教育方針は母がほとんど決めていて、塾通いも母の提案だった。
当時はその状況を何とも思わなかったし、母は塾に通わせはするが成績に何か言ったり、勉強を教えたり、勉強の仕方や計画に力添えたりすることがなかったので教育ママだと感じることはなかった。
でも、大人になって三女からの密告で明らかになったのは、母はどうやら私たち三人姉妹の中から医者を輩出させたかったのだということで、私はドのつく文系だったし、成績も中の上程度しかなくて、母の謎めいた期待に応えられなかったのは大変恐縮である。

さて、女子高生の私がやる気もそこそこに半ば惰性で通っていたのは、当時南浦和にあった栄光ゼミナール系列のnavioという塾だ。名目は大学受験用の予備校だったが、教室も小さく1クラスの生徒も10名前後だったので塾と表現したほうが正しい。
3つあるうちの真ん中のクラスにいた私がまあまあ意欲的に受講していたのは国語の授業で、現代文も古文も同じ先生だったが面白いおじさんだった。なんと、大岡山でつけ麺屋を営みながら塾講師もしているという。さらに、短歌が趣味で、賞を取るこもあるのだとか。それまで私は塾でも学校でも、クラスの中で先生からいい意味で目をつけられて面白くいじってもらったり、贔屓されたりすることもない、先生から見ると没個性的な生徒だった。大して成績も上げられなければ、気の利いたことも言えない。でも、その先生の授業で初めてそんな存在になれた。国語の偏差値が冗談抜きに10上がったのだ。
間違いなくその先生の解説が興味深く、まさに開眼できたからだった。もともと国語は得意な科目に入っていたが、見える世界が変わった感覚があった。カタルシスや、アイデンティティなど、今となっては知識として定着した言葉も、当時の私にとっては新鮮で、自分のモヤモヤが現代文に書かれている文章で解決の糸口が見つかる感覚が楽しくて仕方なかった。その入り口へ誘ってくれたのは間違いなく先生だった。
また、その先生の生き方も興味深かった。男性で、家庭を持ち、3人の子どもを成人まで育てながら、やりたい仕事を自由に何個も掛け持ちして実現する。書いていて気づいたが、私の今の生き方は、先生の受け売り?

本田先生のお店「しま坂」にはまだ行けていない。大岡山が遠いからだ涙
でもいつかは行きたい。これを10年以上言い続けながら、先生のTwitterをフォローして時々覗き見ている。

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