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現代の日本の信仰

日本の宗教組織

 現代の日本において、『信仰』は自由である。だからこそ、巨大な力を持つ組織は自らを律していく必要がある日本には、179,952(令和4年現在 宗教年鑑 | 文化庁 (bunka.go.jp)より)の宗教組織がある。神道系がもっとも多く、次に仏教系である。キリスト教系は1割以下である。それが『日本の信仰』の現在地になる。

 さて、それほどまでに多様な宗教が混在している社会が『日本』である。もともと八百万の神を信仰してきた日本人に奈良仏教が入り、鎌倉仏教へと繋がっていく。仏教は当初から新興勢力であった。彼らが規模を持った最大の理由は、信仰の具現化である。そもそも偶像崇拝は認めていなかったが、大衆化していくにあたり、仏像が普及し、また現世で苦しむ人間に来世や天国という夢を見せることで心を掴んでいった。また経典を念仏というカタチに変え、大乗になってからは、さらにグループ内の共通言語ができることで、一体感や連帯感が強く感じられるようになっていった。
 信仰体験を科学していくと、「同じ言葉を覚えて唱えること」に意味がある。それにより、会ったこともない信者の人と繋がることができる。だから、新興系はオリジナルの言葉を唱えることで独自性を出して、区別をしている。この連帯感を《波長》という呼び方をするとわかりやすい。あるフレーズを唱えることで、同じ波長になる。そのしくみは身体の使い方にある。まず声(音)を出すためには身体を使う。そして、おなじ《音》を出すには、同じように身体を使う必要がある。声の場合は、喉や舌や気管である。これを喉や舌や気管でなく、全身の筋肉や骨や神経も使い、波長を合わせる場合がある。簡単な動作を行う場合は、合掌や十字を切る仕草である。また『一般』の場合に置き換えると、「踊り」や「ダンス」のユニゾンになる。同じ格好(ポーズ)を繰り返しおこなうことで、次第に人間同士の波長が合ってきて、気が合いやすくなるのである。

新興宗教の課題

 さて、新興宗教の課題は、端的に「子どもが信者に加わるシステム」にある。もちろん意図的に集団で土地に住み、コミュニティを創り、信者の仲間同志で結びつきやすい環境をつくっていること自体は《外側》から見ると異様で不安な行為であるが、違法ではない。ただ異様で不安を与えていることは自覚をして、改善に努めていただけると良いと思う。
 共産党にしろ、公明党にしろ、でかでかと民家にポスターを掲げる。だいたい公明党の向かい側には、共産党かれいわのポスターがある。公明党のポスターはわかりやすくエリアをマーキングしている。
 違法行為ではないから、よいのであるが、自己を主張すればするほど、他者からは距離を置かれる。そのことにより、身内の繋がりが強くなり、一般社会を侵食しはじめる。
 (どうやっているかは、今後の自浄作用を期待して、ここには書かない)

特定の団体批判が目的ではない

 特定の団体を批判しているのではなく、時代は常に変わっている。
 共通している課題は、信仰二世や三世、四世を純粋培養をすればするほど《外の世間》を知らない人間に育っていく。つまり一般社会の常識と信仰している宗教界との距離の取り方をうまくとれない人間に育ってくる。
 そういう人間は、これまでも存在していたが、積極的に《外の世界》にはでていなかったため、いわゆる"社会問題”になることはなかった。記憶に残るところでは「オウム真理教」であろう。70年代に新興宗教ブームがあり、多数の新興宗教が生まれた。これは実際に当時を知る方から生で聞いた話で、当時は横並びの団体は切磋琢磨して、精進して活動していたそうだ。
 しかし、90年代に組織が大きくなるにつれて、当初の純粋性よりも組織としての体裁が強く求められるようになっていってしまった。それも時代の流れである。
 
 ここでの問題は《内側》では正当なことが《外側》では、認められていないことである。新興宗教ではなくても、キリスト教やイスラム教などにもそれぞれに《戒律》や《教義》がある。《内側》を宗教の中の戒律や教義とすると、《外側》とは《一般社会》という概念(イデア)である。宗教の教義と一般社会の概念との「距離」の取り方が組織や信仰の在り方として重要になってくる。特定宗教と一般社会の関係において、「我々の宗教はこうする。しかしあなたたち《一般社会》がそうしないことは自由だ」という関係性が大切である。この考え方を持つことにより、あらゆる人とコミュニケーションをすることは可能になる。しかし、それが「我々が正しく、あなたは間違っている」となってしまうと、急に「優生思想」に陥ってしまい、コミュニケーションができなくなる。

これからのこと

 日本で何が起きていたのか。
 そして、これから起きるのか。

 
 今の社会や人間の感覚を以前の状態には戻すことはできない。
 今はあらゆる世代が新たな日常に突入している。
 これからは、起きていることを素直に観察していくことが大切である。   
 まだ変化を感じない層は、現在もいまだに閉じた世界にいる『守られている層』だろう。しかしこの変化を感じている層はダイレクトに周囲との軋轢を体内の変化にも感じて、日々対応をしている。人によっては、医療でストレスを緩和している人もいるだろう。完全に宗教関係の人は入ってこれないエリアを創ってほしいという層もいるだろう。
 さて、マスメディアでもついに新興宗教と自民党の関係が白日のもとになり、宗教と政治の関係やこれまでに何が起きていたのか、テレビを観ている層にも伝わっている。宗教法人の資金を国が把握しておき、必要ならば課税や差し押さえをできるようにしておく、という発想は為政者ならば、当然でてくる。信仰の自由を守る必要もまた真理であり、双方のバランスが大切。
 一番やってはいけないことは面倒くさいと思考をやめてしまうこと。誰かに思考を預けてしまった結果、この国では、元首相暗殺テロ事件が起こり、国葬の儀が行われた。
 絶対にあってはならないことがこの国では何度も起きている。
 主導権をテロを利用し、賞賛するような彼らに渡してはいけない。

政治の役割

 その時代に政治が弱者救済の仕事をしないでどうするのだ
 今、困っている人がいる。
 今、困っている人を、今すぐに助ける。
 なぜなら、そうしないとこの社会は崩壊していく。崩壊の起因のひとつは宗教二世の問題であったが、他にも経済や文化の停滞も関わってくる。
 高齢社会が進むなかで、日本では、誰が誰のためにどのように働くのか。この問いがこれからの礎を創る民衆のための政治に繋がっていく。政治家の役割は、『大衆』を創ることではなく、国民のために国家のしくみを『法』をつくることで整備していくことである。
 
その根本の気持ちを大切にして活動をしてほしい。

子どもたちへ伝えること

小さな針をさすと、そこから巨大な岩が崩れていく。
国会議員が国民を守る行動をしなくてどうするのだろうか?
誰のための日本だろうか? 
 私は思う。こういうことは順番だ。すべてを捨てて再生できる人は少ない。親や兄弟は大切だし、子どもも大切だ。また友人も恋人も、仕事も趣味も大切である。それらをすべて捨てて、《新しく生きなおす》という無謀なことをできる人間は稀である。不幸も幸福も人間には順番に平等に起きるのである。だからこそ、ひとりひとりの身に不幸な出来事は起きないように私は願っている。

最後にひとりひとりの心がけと意識で、日本は変わる。
世界も変わる。戦争を回避し、平和を続けることができる。
それは日々の努力である。努力をやめたら、すぐに争いは始まる。
平和とは努力して続けていく状態に過ぎない。
それはまぎれもなく日本の《一般社会》が認めている事実である。

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