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【漫画解釈/考察】藤本タツキ『ルックバック』『さよなら絵梨』と映画「引きこもりとイマジナリーフレンドの物語として読む」《前編》

『ルックバック』藤本タツキ
『さよなら絵梨』藤本タツキ
『ブルーアワーにぶっ飛ばせ』監督 箱田優子
『ボクのエリ 200歳の少女』監督トーマス・アルフレッドソン

※この記事は、ネタバレを含みます。原作漫画を先に読むことを、お勧めします。


『さよなら絵梨』と『ルックバック』の共通点


『さよなら絵梨』は、『ルックバック』に続いて、「少年ジャンプ+」上に無料公開された短編の読み切り漫画です。両作品とも、これまでに少年漫画にはあまりなかった不思議な感触と想像力を駆り立てられる作品です。

『ルック・バック』と『さよなら絵梨』には、いくつかの点で共通点があります。

  映画作品のオマージュを散見することができる点、主人公が思春期に入る段階で本格的に物語が始まっている点(12歳を起点にしている)、引きこもりを題材にしている点、物語(漫画)によって現実(事実)を改変することができる点などが挙げられます。

それは、『ルックバック』のラストのコマのシャロン・テート事件を改変した『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の小道具にも表れています。

藤本タツキ作品全般には、洋画・邦画を問わず、このような映画のオマージュを匂わせるコマの挿入が見られ、藤本タツキ先生の映画に関する造形が深いことが伺えます。

 『さよなら絵梨』にも、多くの映画作品の名前が出てきますが、タイトルや内容からも分かる通り、『ボクのエリ 200歳の少女』をモチーフしているのは、明らかです。両作品の主人公は置かれた状況にいくつか共通点が見られます。

以前『ボクのエリ 200歳の少女』について、引きこもりの少年とイマジナリー・フレンドの物語として、作品の内容を解釈する記事を書きましたが、『ルックバック』と『さよなら絵梨』についても、引きこもりとイマジナリー・フレンドの物語として、解釈してみたいと思います。


 『ルックバック』のタイトルに込められたメッセージ


『ルックバック』は、『バタフライ・エフェクト』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』などの映画のオマージュがすでに指摘されているように、いろいろな要素が組み込まれており、解釈も多様にできる作品であることは間違いないかと思いますが、今回は、『さよなら絵梨』の前作として、引きこもりの少女(少年)の物語として考察をしてみたいと思います。

まず、この作品を考える上で、重要になるのが、タイトルの『ルックバック』とは、何を意味しているのかという問題です。

『ルックバック』の第1の鍵として、最後の作画にあるように、イギリスのロックバンド、オアシスの『ドント・ルック・バック・イン・アンガー』が、関係しているのは、間違いなさそうです。

この『ドント・ルック・バック・イン・アンガー』は、マンチェスター出身のオアシスの代表曲の一つですが、アリアナ・グランデのマンチェスター・アリーナ爆破テロ事件の時に、犠牲者を追悼するための象徴的な曲として歌われたものであり、この作品が連想させる京都アニメーション放火事件の追悼の意が込められていると思われます。

クリエーター(漫画家を含む)の成功の背後には、多くの夢破れた人達がいて、漫画家(クリエーター)の背中が、怒りや憎しみや悲しみをぶつける的になる現実をも示唆しています。

それと同時に、加害者側に対しても、怒りや憎しみの眼差しを向けるだけではなく、何がそのような行動を起こしているのかを、振り返る眼差しが必要であることを示唆しているとも取れないでしょうか。

そして、第2の鍵として考えられるのは、作中の4コマ漫画『背中を見て』です。そして、ラストのコマで、通り魔をやっつけた藤野先生の背中に、斧が刺さっています。

この『背中を見て』の4コマ漫画こそがこの作品の重要な鍵となっているように思われます。

京本のイマジナリーフレンドとしての藤野歩


この4コマの作者は京本と記されています。作画の特徴が、藤野(歩)であるのに、京本のクレジットがされています。

京本は、引きこもりの少女として描かれています。そして、藤野歩は、対照的に、闊達な少女として、引きこもりの京本を牽引する人物として描かれています。

藤野歩が、京本の卒業証書を届けに行った帰りに、雨の中を走りだす場面シーンがあります。『ショーシャンクの空に』を思わせるシーンとも取れますが、箱田優子監督『ブルーアワーにぶっ飛ばせ』(2019)のブルー・アワーの中を走るキヨのシーンと類似していると、個人的には思いました。

この『ブルーアワーをぶっ飛ばせ』に出てくるキヨは、主人公のイマジナリー・フレンドであることが最後で明らかになります。

 ここで、藤野歩が、キヨであるとするならば、藤本歩の方が、京本のイマジナリー・フレンドということになります。

こう考えると合点がいく点がいくつかあります。

まず、東京に行った時の写真には、京本しか写っていません。

 また、先程の『背中を見て』の京本のサインの問題にも、説明が付きます。

 そして、シャーク・キックの11巻の「シャーク様の出番だぜ」のコマと美大での通り魔に蹴りかかる藤野歩の登場シーンが重なります。

引きこもりであった京本を、イマジナリーフレンドである藤野歩が部屋の外に連れ出してくれて、藤野キョウにしてくれたストーリーであると、捉えると筋が通ります。

藤野キョウの後ろ姿(髪型)が、京本であり、部屋で体育座りをしてシャークキックを読みながら泣くシーンでは、京本に戻っています。

そして、ドアに掛けられていた部屋用の上着を振り返るシーンがありますが、これは、京本(藤野キョウ)が、イマジナリー・フレンドの藤野歩に支えられていたことを気づくシーンであると考えられます。

これが、3つ目の『ルックバック』の鍵です。

『ルックバック』のタイトルに込められたメッセージ、再び

『ルックバック』は、漫画や映画を含むイマジナリー(想像)が、現実の困難に直面する少年少女たちを救う原動力になっているという側面をクローズアップしています。

もちろん、藤野キョウを、藤本タツキ先生に置き換えて、読むことができるでしょう。漫画家としてそのような立場を受け入れる決意表明とも受け取れます。

そして、京本が、藤野歩というイマジナリーフレンドと、お別れをしなければならないということは、現実を受け入れ、前に進まなくてはいけないメッセージ性が、そこにはあります。

それは、次の短編の『さよなら絵梨』にも継承されています。優太が、絵梨がエンドレスする世界を、破壊しなければならなかったのと、同じです。

非現実の世界に、閉じこもっているだけでは、肥大する目標や夢が現実化しないからです。

それは、漫画やアニメが、引きこもりから救ってくれるというプラスの力を持っているとともに、現実の世界と乖離して、閉じられた世界を形成する力も持っている一面と関連付けられます。

公開された当初の作品では、通り魔犯も、京本と同じ引きこもりであることが強調されていましたが、社会的に誤解を受ける可能性から、修正されています。これは、作品の本来の主題や構成の面からすると、大きな痛手だったと考えられます。

本来なら、自己だけの精神世界から、青年期に、緩やかな衝動的な力を借りて、現実的世界に折り合いをつけていくことになります。

しかし、自己だけの精神が、大人になってからも、肥大し続けた場合は、大きな衝動的なエネルギーが必要になります。

誤った暴発を防ぐ手段としての、漫画やアニメのイマジナリーの可能性もあるのではないかという実験的な作品だったのではないかと考えられるのです。

『ルックバック』は、京本が語る物語であり、藤本タツキ先生が語る物語であったのではないでしょうか。

そして、不本意な修正を踏まえて、新たに出されたのが、『さよなら絵梨』だったのではないかと考えられるのです。

『さよなら絵梨』と『ボクのエリ 200歳の少女』

続く


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