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【映画解釈/考察】『ぼくのエリ 200歳の少女』『ボーダー 二つの世界』「引きこもりの物語の表象的存在としての異能者(亜人)とエディプス・コンプレックスの克服」

『ぼくのエリ 200歳の少女』(2010)トーマス・アルフレッドソン監督
『ボーダー 二つの世界』(2018)アリ・アッバシ監督

スウェーデン作家ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストによる原作・脚本

『ボクのエリ 200歳の少女』と『ボーダー 二つの世界』は、ともに、スウェーデンの人気ホラー作家ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの小説を原作としている上に、自ら脚本に携わっています。

ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストは、もともとスタンダップコメディアンや手品師をしていたようですが、現在は、スウェーデンの権威ある文学賞であるアウグスト賞のノミネートされるほどの現代スウェーデン文学を代表する作家の一人です。

そして、映画化された両作品は、ともに、亜人と人間の関係を描いたダークファンタジーで、亜人を描くことで人間の本性を炙りだす点と引きこもりが生み出す亜人の物語という点で共通しています。

この寓話的な二つのダークファンタジーについて今回は詳しく見てみたいと思います。

女の子ではない〈エリ〉(『ボクのエリ 200歳の少女』)

  一見すると、オスカーとヴァンパイア・エリによる北欧のダーク・ファンタジー版小さな恋のメロディーのようですが、リアリティを多分に含んだ寓話的になっています。

特に、作品の中で気になるのが、エリが繰り返す、私は女の子ではないという発言です。日本版では、エリの局部に去勢のあとがあるものをはっきりと確認をすることができませんが、『ボーダー 二つの世界』でも同様に生殖器が物語の重要な要素になっています。

エディプス・コンプレックスと去勢(『ボクのエリ 200歳の少女』)

  この去勢について注目して見てみると、また別の物語が浮かび上がってきます。

  去勢と言えば、エディプス・コンプレックスを連想させます。

  フロイトのエディプス期(幼児期後半)における男の子は、母親に性愛感情を抱き、父親を敵視するようになりますが、その一方で、その報復として去勢されるのではないかという不安を抱くようになります。

  そして、父親に服従し同一化しようとすることでそれを克服します。この過程を得て、リビドー(性的衝動)を無意識化で抑制できるようになる潜伏期に至ります。

  これは、欲動(エス)を抑制し、社会的規範に沿った存在(超自我)を志向する自我の確立をもたらします。

 しかし、生殖期(思春期)になると、潜伏していたリビドー(性的情動)が復活します。

  一方、女の子は最初から去勢されているため、社会的規範に沿った存在=父性的である超自我は育ちにくくなり、リビドーは継続されます。

  ジェンダー・フリーの観点からは不適切な思考かもしれませんが、男性性と女性性と分類し、男性も女性性を内面に必ず持ち合わせていると考えると、この2つの物語を理解するうえで重要な要素になると思われます。

表象的存在としてのヴァンパイア〈エリ〉(『ボクのエリ 200歳の少女』)

 さて、映画の内容に戻ると、オスカーの年齢が12歳くらいで、ちょうどこの生殖期(思春期)に差し掛かったところです。

  しかも、オスカーは、いじめによるストレスを抱えており、部屋の中で、いじめ相手に対して復讐する妄想をしています。

 また、オスカーと別居している父親は、父性的な存在としての父親の役割を果たしていません。

これは、オスカーのエディプス・コンプレックスの克服が不十分または、未完であることを示す設定であると想像できます。

 そして、そこに去勢された女の子であるエリが登場します。

 そのタイミングでの登場に、エリが、去勢されたリビドーを表象する存在であることを連想させます。

  実際、エリが生きるために衝動的に人を襲う存在であることやエリが復讐することを教唆する存在であることも、その仮説を後押しするものになっています。

 オスカーは、エリの教唆によって、いじめられていた相手を、棒で叩いて反撃し、出血して騒ぐ相手を見て、恍惚の表情を浮かべます。

イマジナリー・フレンドとしてのヴァンパイア〈エリ〉(『ボクのエリ 200歳の少女』)


 エリの存在が、去勢されたリビドーの表象だとすると、エリの存在が、オスカーの想像上の友達、すなわち、イマジナリーフレンドである可能性が出てきます。

 その根拠の一つとして挙げられるのが、ヴァンパイアに関連する描写があまりにも、典型的である点です。

  特にヴァンパイアに噛まれた女性が、ヴァンパイアになり、陽に当たると発火するシーンは、まさに、典型的なものと言えます。

  また、引っ越してきたエリを見たオスカーは、裸のまま窓(レンズ)越しに眺めており、そのあとナイフを取り出します。これは、前述のリビドーの出現を仄めかすものです。

  そして、さらに気になるのが、最後の列車に乗っている場面です。エリは大きな箱の中におり、オスカーとモールス信号を使ってコンタクトを交わしています。

 これは、オスカーが次のヴァンパイア‹エリ›のパートナーとして違う町に向かって旅立っていくシーンであると表向きは思われますが、フィクションであるにしても、12歳の少年がその役割を担うには、あまりにも非力あり、説得力に欠けます。


引きこもりの物語とヴァンパイア〈エリ〉(『ボクのエリ 200歳の少女』)


 この話の土台にあるのは、オスカーが友達がいない上に、いじめにあっており、しかも母親はそれに気づいておらず、世界から孤立している状態です。これは、引きこもりの状態と類似しています。

フロイトやユング的に考えると、引きこもりが、エディプス・コンプレックスが充分に克服できていないために、世界(社会)との折り合いがつかない状況であるとする分析があります。

その原因の一つを示すものとして、前述の通り、父性的な役割を持たない父親の描写があったと考えられます。

 このエディプス・コンプレックスを克服していないと、万能感が継続し、エスと超自我のバランスが取れていない自我が形成されます。

 そして、小さな世界(部屋の中)で万能感を満たすようようになり、大きな世界(社会)と折り合いが付きにくい状況になります。

オスカーは、世界(社会)から孤立した状況で、万能感やエスを満たすために、異能者であるヴァンパイア・エリをイマジナリー上で、生み出します。オスカーのリビドーは拡大し、エリの助けを借りて、小さな世界の殻を破り、外の世界に向けられます。

 そして、外の世界の支配者(父性的権威)を倒すことで、エディプス・コンプレックスを克服します。

 最後の場面は、エディプス・コンプレックスを克服したオスカーが、エス(リビドー)=エリを自我のコントロール下に置くことができていることを示す表象ではないかと考えられます。

 これは、『鬼滅の刃』の禰豆子の存在に通じるものがあります。




引きこもりの物語と母性による克服(『ボーダー 二つの世界』)

『ボーダー 2つの世界』の主人公のティーナも、容姿によって幼いころから周りの人間から差別を受けている存在です。そして、税関職員として働く一方で、山の中で、愛していない、社会的に未熟な男性とひっそりと暮らしています。彼女も、引きこもりに近い状況にあると言えます。

 そして、そこに、男性器のないヴォーレが現れます。ヴォーレは、ティーナに、自分たちが、人間によって迫害されてきた亜人であると告げ、共に人間へ復讐することを誘われます。

そして、ティーナは男性器をもった女性であったため、二人は森の中で結ばれ、さらに絆を深めます。しかし、ティーナは、最終的に、人間(社会)と共生することを選び、ヴォーレと決別します。

そして、最も重要なのは、ヴォーレが去った悲しみを、ヴォーレから送られた子ども(母性)によって克服する点です。これは、もともと去勢されている女性が、男性の子供を産むことで克服するフロイトやユングの唱えるエレクトラ・コンプレックス(女性のオイディプス・コンプレックス)の克服方法に該当します。

ティーナが人間社会で生きていく選択ができたように、動物たちが潜在的に備わっている母性(女性性)によって、暗闇の洞窟の中にいる人たちが救われるストーリになっているます。

圧倒的な映像美をもつスウェーデン映画として


『ボクのエリ 200歳の少女』と『ボーダー 二つの世界』は、とても映像美に富んだファンタジー作品にも関わらず、極めてリアリティを追求したスウェーデン映画です。

この難易度の高い作品の前者の撮影監督を務めているのが、ホイテ・ヴァン・ホイテマです。この作品で高い評価を受け、監督のトーマス・アルフレッドソン と再びタッグを組んだ、イギリス映画『裏切りのサーカス』で、再び高い評価を受けます。

このあと、ホイテ・ヴァン・ホイテマは、スパイク・ジョーンズ監督と『Her 世界にひとつの彼女』やアップルのCMを製作をしたり、クリストファー・ノーラン監督と『インター・ステラー』『ダンケルク』『TENET』の撮影監督を務めていて、映像化が難しい作品を製作するのに欠かせないハリウッドを代表する撮影監督になっています。

また、『ボーダー 二つの世界』も、カンヌ国際映画祭のある視点部門のグランプリやスウェーデンのアカデミー賞であるゴールデン・ビートル賞の作品賞などを受賞しています。

運良く、映画館で鑑賞することができたのですが、本当に、映像美に圧倒されます。


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