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【映画解釈/考察】『幸福なラザロ』/『夏をゆく人々』「イタリア人女性監督アリーチェ・ロルヴァケルと現代社会(狼)と失われつつある世界(羊)の間に漂う映像美」

『幸福なラザロ』 (2018)『夏をゆく人々』 (2014)  アリーチェ・ロルヴァケル監督


 『幸福なラザロ』は、『夏をゆく人々』のアリーチェ・ロルヴァケル監督の実在の事件をモチーフにした2018年のイタリア映画です。ロルヴァケル監督が、本作でも、脚本を書いており、カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞しています。

  『幸福なラザロ』でも、姉で、今のイタリアを代表する女優の一人であるアルバ・ロルヴァケルが、出演しています。また、村人を騙して搾取する侯爵夫人役を、『ライフ・イズ・ビューティフル』のニコレッタ・ブラスキが演じています。

  そして、何よりも、ロルヴァケル監督が自ら探しあてた、ラザロ役のアドリアーノ・タルディオーロの瞳が、演技や台詞以上に、作品全体を通して、観る側に不思議な感覚を与えており、前作の『夏をゆく人々』と同様に、視聴後に何とも言えない余韻を残す作品となっています。

『夏をゆく人々』『幸福なラザロ』の2つの作品だけでも、充分、アリーチェ・ロルバケル監督の非凡な才能を体感することができるわけですが、よく、アリーチェ・ロルバケル監督は、ネオレアリズモ(イタリア・リアリズム)映画の現代の後継者として表現される場合があります。

  社会に対して冷静(批判的)な目線で、現実(問題)を写し出すという点においては正しいわけですが、現実に漂う非現実的な映像美に拘り、しかも寓話的なストーリーをもつ点で、アリーチェ・ロルバケル監督独特の世界観が既に確立されています。

『幸福なラザロ』も、現実の事件をモチーフにしているのにも関わらず、とても寓話的なストーリーになっています。よって前後の作品と関連付けながら、以下に考察をしてみたいと思います。

『Omelia contadina』(2020)


 2020年に、フランス人アーティストのJRと共同で9分間の短編映画を無料公開しています。これは、アリーチェ・ロルバケル監督が、自身の出身地のトスカーナ地方を含む伝統的農家が直面している危機に対して、関心をもってもらうために、JRに呼び掛けて実現したプロジェクトです。

写真家のJRは、ヌーヴェルヴァーグの代表的な女性監督であったアニエス・ヴァルダとのドキュメンタリー映画『顔たち、ところどころ』(2017)の監督としても有名ですが、街中などに巨大な人々の顔をラッピングし、社会問題などを顕在化させる手法で、社会活動を行う世界的な芸術家です。日本でも2012年に、映画の中にも出てくる撮影室を備えたトラックで、東北地方を訪れ、復興活動に貢献しています。


 そして、どことなくアニエス・ヴァルダを匂わせるアリーチェ・ロルヴァケル監督との共同監督作品でも、巨大な顔が雄大な牧草地に登場し、失われつつある伝統的な農業を盛大に弔うとともに、伝統的な農業を盛大に讃える内容になっています。重要なのは、アリーチェ・ロルヴァケル監督が、失われつつある伝統的な農業を行う人々の営みを守りたいという思いから生まれた作品だという点です。そこには、アリーチェ・ロルヴァケル監督自身が、トスカーナ地方の伝統的な養蜂業を営む農家の出身であることが関係しています。そのことが大いに反映された映画が、2作目の『夏をゆく人々』(2014)です。


『夏をゆく人々』(2014)の解釈・考察


『夏をゆく人々』は、アリーチェ・ロルヴァケル監督の半自伝的な内容を取り扱った作品で、伝統的な天然養蜂を営むジェルソミーナ一家に忍び寄る現代社会の波がプロットの中心になっています。

 具体的には、まず、伝統的な養蜂業が、法律の衛生基準に満たしていないために、廃業の危機に直面している様子が描かれています。そして、衛生基準を満たすための改装費の工面のために、父親のウルフガングは、保護観察中の少年マーティンを預かることにします。そして、もう一つは、新たな観光地を発掘するために、テレビ局が、一家の住む土地に、番組の企画「不思議の国」の取材で訪れます。そして、ジェルソミーナは、現代社会(番組の司会者役のモニカ・ベルッチ)の誘惑に負けて、伝統的な生活の営みを守ろうとするウルフガングの意に反して「不思議な国」企画に応募してしまいます。


前述のとおり、ネオレアリズモ作品のように、一家が直面する問題を、ドキュメンタリー的なカメラワークで前半は撮影していますが、後半は一転して寓話的な内容が続き、しかも映画全体を通しては、現代社会において「失われつつあるもの」を、ノスタルジックに描いています。


この作品で、重要な要素になっているのが、映画の舞台が、エトルリア文明の遺跡が残る土地である点です。エトルリア文明は、トスカーナ地方の先住民エトルリア人が都市国家を形成して一時栄えた古代文明で、ローマ人の侵略によって滅びました。映画の中では、ジェルソミーナ一家を含めその土地の人々が、その末裔のように描かれています。


 エトルリア文明では、女性の地位が尊重されていたようで、映画の中でもジェルソミーナがその象徴的な不思議な力を持っているような描かれています。

 また、エトルリアの言語は、現代において、解読できないようで、これは、少年マーティンのことと関連していると思われます。マーティンもジェルソミーナと同様にエトルリア人の不思議な力を持っており、それゆえに、口笛のみで、現代人と会話をしないと見ることもできます。そのため、最初は疎ましく思っていたマーティンを最後は、一家で匿おうとします。


そして、次の作品である『幸福なラザロ』に繋がる点が、羊=マーティンの関係です。この作品に出てくる動物が、ラクダと羊です。ラクダは安定の象徴ですが、羊は、人間の贖罪のために犠牲になる動物です。マーティンの失踪とともに、羊はお金のために売られていきます。マーティンはそもそも、純粋な心を持っているにも関わらず、罰せられ少年院に入れられてしまう存在です。これは、『幸福なラザロ』のラザロと一致します。

そして一家は、マーティン同様に、ラクダと共に消えてしまいます。



『幸福なラザロ』(2018)《前半》の解釈・考察



『幸福なラザロ』の前半の舞台は、20世紀後半の小さな村で、村人たちは、農作物などを助けあって生産し、共同生活をしています。貧しいながらも、細やかな幸せをお互いに享受しながら生きている「汚れなき人々」です。しかし、現実は、小作制度が廃止されたにも関わらず、かつて領主だった侯爵夫人に騙されて一方的に搾取されている人々だったわけです。



この作品おいて、頻繁に出てくる象徴的な動物が、狼です。狼は、前半では、貧しい村人から搾取するお金持ち=伯爵夫人たちを表象しています。また、群れから離れた一匹の狼は、搾取する側から離脱しようとする者(本当の幸せを求める者)を暗喩していると思われ、侯爵夫人の息子であるタンクレディがそれにあたります。




それに対して、狼に襲われる羊が、貧しいながらも細やかな幸せを信じている汚れなき村人たちにあたります。そして、羊の代表的な存在として出てくるのが、村人全員に福音(幸福)を一方的に贈与する純朴な青年ラザロです。一匹の狼にさえ福音を与える存在です。ラザロの見た目も、羊のような身なりをしています。


 そして、ラザロの名の通り、金持ちとラザロの聖人ラザロを象徴しており、前半の最後に、ラザロは、崖から転落し、命を落としてしまいます。それと同時に、侯爵夫人は、罰を受け、村人たち=羊は、解放されます。














『幸福なラザロ』(2018)《後半》の解釈・考察



後半の舞台ではでは、時が経ち、かつての村人たちは、街で生活しています。そこに、なぜか、時を超えてラザロが復活し、街に降りてきます。しかし、そこで、再会したかつての村人たちは、隔絶されていた社会によって救出されたにもかかわらず、貧しい生活のままでした。しかも、詐欺や窃盗なとで生計を立て生活をしていました。


後半で、狼が表象するのは、富めるものがますます富み、貧しいものからますます搾取する資本主義社会の文明や体制です。かつて、羊だった村人たちも、資本主義社会の文明に飲み込まれ、狼側の人間になってしまいます。





ただ、その中でも、ラザロ=羊に振り向いてくれたのが、アントニアとタンクレディの二人でした。しかし、そのタンクレディも、2回目は、会ってくれませんでした。そして、帰りに寄った福音を占有する街の教会からも、貧しいかつての村人たちは、追い出されてしまいます。そこで、正装をしたラザロと思しき青年が、教会のパイプオルガンを弾き、福音をかつての村人の耳に届けますが、アントニアを含め彼らの心には、響きません。そこで、ラザロは、初めて涙を流します。




そして、銀行のシーンになります。銀行は、資本主義社会(お金持ち)の象徴的存在であり、この映画のなかでは、狼の群れの象徴でもあります。羊であるラザロは、銀行で、タンクレディに回収した財産をすべてを返し、村人を元に戻すことを嘆願します。しかし、狼の群れに飛び込んだ羊である聖人ラザロは、再び人間の罪を被り、命を落としてしまいます。

そして、ラストのシーンに出てくるのが、銀行のラザロもとを離れ、車の間を走り抜ける一匹の狼です。車は、資本主義社会・文明の象徴であり、そして、一匹狼は、アリーチェ・ロルヴァケル監督自身であり、または資本主義社会で、失われたラザロの世界を探し求めている我々の誰かかかもしれません。一匹狼が存在する限り、ラザロはまた復活するかもしれないというアリーチェ・ロルヴァケル監督の思いがラストには込められているのではないでしょうか。

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