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第1回最恐小説大賞【短編連作】受賞作、沖光峰津『怪奇現象という名の病気』の試し読みと著者コメントを紹介!

第1回最恐小説大賞受賞の話題作、8月28日発売の『怪奇現象という名の病気』(沖光峰津)の冒頭(プロローグ+第1話)を無料公開いたします!

まずは著者コメントをご覧ください。

著者コメント・沖光峰津より

 心の病を抱えた人々がやってくる心療内科専門の磯山病院、患者と共に怪異もやってくる。
 病院の怪で、テーマは「心」――それがこのお話です。
 主人公の中田哲也(なかたてつや)は見える程度の霊感はあるものの、悪霊を退治したり呪いを返したりするような力はありません。
 怖い話が好きな方、あなた自身、もしくは周りにもいるのではないでしょうか? 力と言ってもよいのか分からないほど、ほんの少しだけ霊感を持っているという方が……。哲也も同じです。
 悩んでいる患者たちの話を親身になって聞いてあげる。これが哲也に出来る精一杯です。そして怪異に足を踏み込んでしまう。
 哲也が患者たちから怪異を聞くように、あなたも読んでみませんか。そして、心と怪異の関係を考えてみませんか。

それではどん!と試し読みをお楽しみください。

プロローグ

 中田哲也は磯山病院でアルバイトをしている。
 病院のアルバイトと言ってもただの警備員だ。医学生ではなく普通の大学生である。
 磯山病院は、怪我や病気など目に見えるものを扱う一般の病院とは違い、目に見えない心というものを扱う心療内科専門の病院である。
 哲也の住む町は都会ではない。周りを田畑に囲まれ、近くに山々がある田舎だ。
 磯山病院はその中でも町から少し離れた山の中にある。
 自然に囲まれた山の中で安静に治療できるという事もあるが、近隣住民たちとのトラブルを避けるためというのが本当のところだ。
 専門だけあって病院の規模はかなり大きい。大学病院規模の本館に別館があり、入院患者の病棟も普通のものが十棟、重症患者用の隔離病棟が三つもある。
 専門の医者にカウンセラーがいるのはもちろん、施設も整っていてトップレベルだ。
 これだけの規模であるから全国から患者が集まってくる。

 患者には本当にいろいろな人がいる。
 よく聞く統合失調症や気分障害を患っている人はもちろん、脳器質性精神障害など難しい病名も医者からよく聞く。患者から直接話を聞く機会もあるが、病んだ人特有の誰かに監視されているだとか、何かが電波を送ってくるなどという話とは違う話をする人がいる。
 先の人たちの大半が何度も聞くと辻褄が合わない事だらけなのに対して、何度聞いても話の辻褄が合い、まるで事実であるかのように突拍子もない話をする人たちがいる。

 哲也は時々思う、この人たちは本当に心の病気なのだろうか、もしかして……。

第一章 安心毛布

 哲也が吉田と知り合ったのはバイトを始めて間もなくの頃だ。

 吉田徹さんは磯山病院に入院して間もなく一年が経つという、歳は哲也より二つ上の二十一歳である。
 ある事件を起こして、家から一番近い心療内科専門の病院に措置入院していたが、見舞いに来た親戚に、もっと良い病院を知っていると勧められて磯山病院へと転院してきた。
 歳が近いせいか直ぐに親しくなった哲也が話を聞くと、どうも幻覚を見るらしい。幼い頃からそういったものを見ていたが、お婆ちゃんが助けてくれたので怖くはなかったという。今も御守りだと言って亡くなった祖母が作ってくれたボロボロの毛布を大事そうに抱えていた。
 毛布を取ると錯乱して暴れるので、持ち歩くことは先生が許可している。

 哲也も毛布を見せてもらったことがある。
 ボロボロの毛布に開いた穴から何やら梵字のようなものが書かれた布切れが織り込んであるのが見えた。
 吉田さんはこれが御守りなのだと言っていた。

 いろいろな幻覚を見てきたと彼は言う。
 実際、山で鎧武者が刀を振りかざして追いかけてきたこともあったし、車に乗っている時に窓ガラスに頭が崩れた女の人がへばりついていたこともあった。
 吉田さんはお婆ちゃん子で、その都度祖母が助けてくれたのだと言う。

 これはそんな吉田徹さんから聞いた話だ。

   *

「徹は勘の鋭い子じゃけん、人の見えんものが見えると。ばあちゃも昔は見えとったんよ、今は見えんようになったけどの。見えるもんには良いもんと悪いもんがおる。悪いもんには今からば
あちゃが教える呪文を唱えっとええ」

 吉田徹が幼稚園に入ったばかりの頃、何かに怯え、泣いていると、祖母がよくこう言って頭を撫でてくれた。そして子供には難しい呪文を教えてくれた。
 幼い吉田に呪文は難しくて覚えられなかったが、最後の言葉は覚えているという。お経のような難しい呪文の後に必ず祖母はこう付け足していた。

『わしゃなもできん、つくなわやなく、ほかつけ、おまとかんあるほかつけ』

 幼い頃の吉田は幻覚を見るとその言葉だけを何度も唱えていた。
 幼稚園年長組に入った頃、大好きな祖母が病気で亡くなった。
 祖母が亡くなる数日前、枕元に吉田をよぶと一枚の毛布を手渡してくれた。どこにでも売っている安価な薄い毛布だ。それを手縫いで二枚重ねにしてある。寒くないようにと祖母の心の籠もった毛布だ。
「ばあちゃもうすぐ行くけん、徹心配せんでよかと。この毛布が徹を守ってくれるけん、変なもん見たらこの毛布に包まってっとよか。消えるまで毛布ん中おったらいいけん」
 毛布を渡しながら祖母はそう言って笑った。

 祖母の言った通り、その毛布の効き目は抜群であった。
 吉田は毎晩その毛布に包まって眠った。夜中に怖い幻覚を見ることがなくなったからである。

 幾日かして祖母が亡くなった。
 以来、吉田にとってこの毛布だけが怖い幻覚から身を守ってくれる大切なものとなる。汚くボロボロになっても、毛布は何度も洗って使い続けた。
 大人になった今でも手放すことはない。天気の良い日の朝に洗ってすぐに干せば、夜には乾いて使うことができる。
 こうして毎日使っていたが、何度か使えない時があった。干している間に通り雨が降って乾かなかった時や、あまりにもボロボロで母の繕いが間に合わなかった時である。
 毛布のない夜は必ずと言っていいほど怖い幻覚を見た。
 その中でも二度ほど忘れられない出来事があるという。小学五年生と中学二年生での出来事である。

 小学五年生の春のことだ。
 最初は晴天だったのだが母が買い物に行っている三十分ほどの間に雨が降ってしまい、干していた毛布が濡れてしまった。夜になっても乾かず、仕方なく毛布なしで寝ることになった。

 実はその日の朝、吉田は登校する道沿いで嫌なものを見てしまっていた。
 晴天だというのに傘を差した幼女がしゃがんで側溝を覗き込んでいたのだ。横からなのではっきりとは見えなかったが、耳が半分隠れるくらいの髪に、黒っぽい水玉模様の付いた黄緑色のワンピースを着た幼稚園の年長組といった感じの女の子に見えた。

 歩きながら前方の幼女を見ていると、男児二人がその子にぶつかった。確かにぶつかったのに二人はそのまま何事もなかったかのように歩いている。二人の男児が幼女の体を突き抜けていくところを目の当たりにして吉田は合点がいった。
 幼女をよく見ると傘は曲がりひしゃげ、布が裂けて傘の骨が突き出ている。ワンピースの所々には赤黒い大きな染みが付いていた。水玉模様ではなかったのだ。黄緑色のワンピースが血に染まっていた。

 この子は人間じゃない……。吉田は気付いて避けようとした。

 向かい側の歩道へ渡ろうと後ろを見るが、バスが走ってきていて渡れない。仕方なく前に向き直った瞬間、息が止まった。吉田のすぐ目の前に幼女がいた。

「ひぃっ!」

 息を吸い込みながら小さな悲鳴を上げた。
 幼女の右目は傘の骨が刺さって潰れていた。頭の左側が砕けて骨が見え、血と黄色い体液がグジュグジュと垂れるように流れている。

『おててがないの、鞄は見つかったけどおててがないの』

 残った左眼で虚ろに吉田を見つめて幼女が言った。
 不気味な薄ら笑いをして左腕を突き出してくるが、その手首から先がない。血が黒く固まった肉と突き出た白い骨だけがそこにあった。

『おててがないから鞄が持てないの、お兄ちゃん一緒に探してくれる?』

 残った左眼で恨めしげに彼を見つめながら幼女がせがむ。
 その足元、その部分だけ真新しいガードレールの下に花瓶が置かれ、挿した花が枯れていた。

「うわぁあぁぁ」

 叫びながら幼女の脇を逃げるように走った。
 そのまま学校まで全力で走って友人の姿を見つけたところでやっと少し落ち着いて、後ろを振り返る。
 もう幼女の姿は見えない。だが声が耳に残った。

『おててがないの……』

 この世ならざるものを見ることに慣れた吉田も、これには参った。
 帰りはわざと遠回りしてあの道を使わずに帰宅した。昼間見えるものはそのほとんどが見えるだけで悪さはしてこない。だが今日のは違った。あの幼女の恨めしげな目付きを思い出すと何か嫌な予感がしてならなかった。

 そんなことがあった夜に魔除けの毛布が使えなくなったのである。
「えーっ、毛布乾いてないの? 乾いてなくてもいいから、それ使うから持ってきて!」
「バカ言わないの風邪ひいたらどうすんの、明日には乾くから今日一晩だけ我慢なさい」
 吉田の必死の頼みも母には通用しない、いつもこうである。吉田が幻覚を見て怖がっていても何もしようとしない、それどころか世間体を気にして怒鳴りつける。
 この頃から母が嫌いであった。夜遅くに帰って来て滅多に顔を合わさない父も同じである。
 その夜は毛布なしで眠った。怖いので部屋の明かりを点けたままベッドに潜り込む。

 深夜、寒さに目が覚めた。五月だというのに真冬のように寒く感じる。
「えっ、電気? そうか母さんが消したんだ」
 寝惚け眼で寝返りを打つ、寒さで寝付けず横になりながら部屋を見回した。暗い部屋にだんだんと目が慣れてくる。
 ベッドの端、足元に小さな黒い影が立っていた。気付くと同時に体が動かなくなる。金縛りだ。
 指一本動かせないのに目だけは動いてその小さな影に吸い寄せられていく。

『おててがないの、おててがないの、お兄ちゃん一緒に探して』

 小さな影が、抑揚はないがハッキリした声で言った。
 あの子だ……。吉田は今朝見た幼女を思い出した。

『おててがないの。あのね、車がおててもって行っちゃったの、それで外れてなくなっちゃったの、溝の中に落ちてなくなったの。おててがないの。だから一緒に探してお兄ちゃん。探してくれないのならお兄ちゃんのおててをちょうだい。おててがないと雨の日ママと手繋ぎできないの。だからおててちょうだい。こっちはダメよ、だってお気に入りの傘持つ手だもん』

 枕元に来た幼女が吉田の顔を覗き込んでニタリと笑った。右目に傘の骨が突き刺さり、崩れた頭から血を滴らせ、左目だけがじっと見ていた。
 痛っ! 左腕に激痛が走る。
 目だけを動かし見てみると、幼女が傘の骨を何度も何度も彼の左腕に突き刺している。
 ジュブッ、ジュブッと、肉を裂く音と共に幼女が口を開いた。

『おててをちょうだい。お兄ちゃんのおててをちょうだい、ママと手繋ぎするの』

 幼女が傘の骨を突き立てるたび、吉田の左腕に激痛が走る。
 痛がる吉田を見て幼女が笑う。

「わしゃなもできん、つくなわやなく、ほかつけ、おまとかんあるほかつけ」

 祖母が唱えていた呪文の、覚えているところだけを一心不乱に繰り返し唱えた。

「わしゃなもできん、つくなわやなく、ほかつけ、おまとかんあるほかつけ」

 どれくらい唱えていただろうか、手の痛みが消えた。。

『そっか、わたしを殺した車の人の手を貰えばいいんだね、お兄ちゃんありがとう』

 血の滴る口をニタリと大きく開くと、幼女は嬉しそうに言って消えた。
 幼女の禍々しい笑みを見つめて吉田も気が遠くなり、そのまま失神したように眠った。

「夢だったのか……」
 朝起きた吉田はたった今呟いた言葉を飲み込む。
 ベッドの下、ちょうど左腕の辺りにひしゃげた傘の骨が一本落ちていた。
 朝食を食べながらそれとなく聞くと、母が教えてくれた。
「ああ、二月の事故ね、車が突っ込んだんだよ、小さい女の子が亡くなったんだって。運転手が電話に夢中で、押しボタンの信号が赤に変わったのに気付かなくてね。慌ててブレーキをかけたみたいだけどスリップか何かして歩道のガードレールにぶつかって、女の子も飛ばされて壁に当たったんだってさ。かわいそうにね。その時ガードレールに挟まれて手が千切れちゃってね、今も見つかってないんだよ、雨で増水した側溝に流されたらしいって聞いたけど、ほんとにかわいそうにね。ほら早く食べて学校行きなさい」
 母の全く心のこもっていない『かわいそう』を聞きながら、吉田は朝食を食べ終えると学校へ向かった。
 幼女がいた歩道を通ったがもうそこには何もいない。
 あの子は無事に手を貰えたのだろうか?
 ガードレールの下で枯れ落ち、茶色い枝だけになった花瓶の花を見ながら吉田は思った。


 次は中学二年の夏のことだ。この時の出来事で吉田は少しおかしくなったのだという。歳を追うごとに怖い幻覚を見ることも減っていたが、久しぶりに怖い目にあった。

 友人の住む団地に遊びに行った時のことである。
 団地内にある小さな公園で友人たちと遊んでいると、三人の大人が入ってきた。喧嘩しているような雰囲気だ。
「すんません、本当にすいません」
 喧嘩ではなかった。夫婦らしい二人組に男が一方的に謝っていたのである。
 聞きたくなくても声が大きいので聞こえてくる。
 どうも男が事故か何かで夫婦の子供を死なせてしまったらしい。話が気になってチラチラと見ていた吉田の目におかしなものが見えた。
 夫婦の周りに男の子が見える。一目で生きている人間じゃないと分かった。姿が透けていたからである。
 小学校低学年くらいのその子は夫婦の周りを楽しそうにはしゃぎ回っていた。夫婦にも、謝っている男にも、見えていない様子だ。
 男の子は夫婦の近くでは満面の笑顔だが、男の前に来ると目を吊り上げ、恨みのこもった顔で何度も男を殴るように手を動かしていた。
 自分を殺した男が憎いんだろうなと思いながら、吉田は友人の話も上の空でその様子を見ていた。

 団地に住む友人が喉が渇いたから部屋に戻ろうと立ち上がった。
 他の友人も同時に立って歩き出す。吉田もその背を追うように立ち上がった。
 歩き出す寸前、不意に右腕が引っ張られた。
 反射的に振り向くと、青白い顔をした男の子が吉田の腕を掴んで見上げていた。男の子は短い髪が頭に張り付くほどにびっしょりと濡れている。
 血の気のない白い顔。その紫の唇がゆっくりと動く。

『見えるよね? お兄ちゃん見えるよね、ボク見えるよね、ひひひっ、見えてるよね』

 全身ずぶ濡れの男の子がピクピクと頬を引き攣らせながら嬉しそうに笑った。紫の唇から覗く口の中は、青白い顔とは裏腹に不気味なほどに真っ赤だった。
 吉田は男の子の腕を乱暴に振り払うと、まるで見えてないような素振りをして歩き出す。

『ひひひひっ、見えてるよね、見えてるくせに。まあいいや、どうやったら死ぬかな』

 後ろから男の子の無気味な笑い声が聞こえてくる。
 吉田は無視して逃げるように友人を追った。
 部屋でジュースを飲みながら男の子のことを考えていると友人が教えてくれた。
「さっきのな、向かいの団地の人なんだ。謝ってたのはよく知らないけど親戚の人らしい、釣りに連れて行った子供が海に落ちて死んだんだってさ」
 友人の言葉を聞いて男の子がびしょ濡れだった理由が分かった。
 帰りに公園を通ったがもう夫婦も男の子もいない。吉田は安心して帰路についた。

 家に帰った吉田がベッドを見るとあの毛布がない。昔のように毛布に包まっていないと眠れないということはもうないが、枕元に丸めて置いていないと安心できないのである。
「母さん、毛布がないんだけど」
「ボロボロだから繕ってあげようと思ってね、もういい加減に捨てたほうがいいんじゃないの?新しい毛布買ってあげるわよ」母は相変わらずの返事だ。
 吉田にとってあの毛布がどれだけ大切な物か分かっていない、喧嘩をするのも嫌なのでその夜は毛布なしで寝ることにした。

 深夜ふと目が覚めた。体が動かない、金縛りだ。吉田は落ち着いて辺りを見回した。
 流石に中学生ともなると慣れたものである。あの毛布が傍にあれば直接的な被害を受けないことも分かっていた。だが今は毛布がない。吉田にひりつくような緊張が走った。
 横向きで寝ていた体勢のままで警戒するように部屋中を見回したが何もいない、いつの間にか金縛りも解けている。
 ほっと安堵して寝返りをうったその時。

「うぅっ!」

 息が詰まったような悲鳴が自然と口から出た。
 顔の直ぐ上に壁からぬっと上半身を生やした男の子がいる。

『ほ~らね、やっぱり見えてる』

 白い顔の男の子が紫の唇をヒクヒクと引き攣らせて真っ赤な口の中を見せて笑った。
 ぐっしょりと濡れた髪から雫がポタリポタリと吉田の顔に落ちてくる。
 上を向いた状態で男の子と正面で向かい合ったまま、また金縛りになっていた。

『ひひひひっ、見えてる見えてる。ひひっ、お兄ちゃんやっぱり見えてる。ひひひっ』

「……わしゃなもできん、つくなわやなく、ほかつけ、おまとかんあるほかつけ……」

 祖母から教わった呪文の覚えている部分だけを、金縛りで言葉にならない口の中で一心不乱に何度も唱えた。

『ひひひっ、そんなの無駄だよ、あのねお兄ちゃん、ボク事故じゃないよ、ボクおじちゃんに殺されたんだよ、おじちゃんに海に突き落とされたんだよ、ひひひひっ』

 男の子が真っ赤な口を歪めて不気味に笑う。ニタリと口元を歪めているが目は笑っていない。
 吉田は見つめ合ったまま必死に呪文を唱え続けた。
 数十秒? 数分? どれくらい時が経っただろうか、ふと掠れた笑い声が止まる。
 不気味な笑みを消した男の子がじっと吉田を見つめて口を開いた。

『どうすれば殺せるのかな? お兄ちゃん殺すのを手伝ってくれる? ボク一人じゃ寂しいの……だからね、手伝ってくれたらお兄ちゃんには何もしないよ。でも……くれないなら、お兄ちゃんに一緒に来てもらうからね、ひっひひひっ、ひひひひっひっひひっ』

 無表情な顔から一転、また不気味な声で笑い出した。

「殺す? 叔父を殺すのか? そんな手伝いなんかできるか、やりたきゃお前一人でやれ。突き飛ばしたり、毒を食べさせたり、いくらでもできるだろ。一人でやれ、俺を巻き込むな……わしゃなもできん、つくなわやなく、ほかつけ、おまとかんあるほかつけ」

 吉田は答えるとまた呪文を唱えた。

『ひひひっ、ダメだよ、突き飛ばしたくても触れないんだよ、なんでか分からないけど、お兄ちゃんなら触れるんだけどな、ひひっひひひっ、毒ってどうやるの、それを教えてくれれば帰るよ、お兄ちゃんには何もしないよ、ひひひひっ、ひひっひひひっ』

「毒って……毒なら公園に、お前と会った公園に尖った葉っぱが植えてあったろ、あの葉は夾竹桃といって毒がある。その葉っぱとか汁を食べさせたら死ぬよ、俺はもう知らんからな、わしゃなもできん、つくなわやなく、ほかつけ、おまとかんあるほかつけ」

 思い出したように答えると後は一心不乱に呪文を唱えた。
 夾竹桃のことは本か何かで見て知っていたことである。

『ひひっひーっひひっ、お兄ちゃんありがとう、ひーっひーっひっひひひっありがとう』

 掠れるような引き攣った笑い声を出して不気味な笑顔を見せると男の子は消えた。

「わしゃなもできん、つくなわやなく、ほかつけ、おまとかんあるほかつけ」

 気が付くと金縛りは解けていて、口の中で唱えていた呪文が言葉となって出ていた。
 また来るのではないかという恐怖と警戒で暫く起きていたが、いつの間にか眠っていて、次に起きた時には朝になっていた。
 次の夜も警戒していたが祖母の毛布があったので怖くはなかった。その夜は久しぶりに毛布に包まって眠った。毛布の御陰か男の子は来なかった。
 それから数日経って団地の友人のところへ遊びに行った吉田は葬式の案内を見つけた。
 張り紙を見ていると友人が声を掛けてきた。
「ああこれな、この前公園に来てた夫婦いたろ、あの二人死んだんだよ」
「えっ!? 夫婦が、あの謝ってた男じゃないのか?」
 友人の言葉に驚いて大声で聞き返した。
「なんだよ急にビビるじゃんか。死んだのは夫婦だけだぜ? なんでも事故か自殺らしい。詳しく知らないけど、カレーか何かに毒が入ってたって聞いたぞ」
 怪訝な表情で答える友人の話に吉田の顔色がみるみる変わっていく。
「毒って夾竹桃か!」
「なっなんだよ、キョウチクトウってなんだよ、何の毒かなんて知ってるわけないだろ!」
 友人は怪訝な表情のまま吉田の腕を面倒臭そうに振り払って歩き出す。

『ボク一人じゃ寂しいの、でもお母さんやお父さんと一緒なら寂しくないよね、手伝ってくれないなら……』

 あの夜、男の子の不気味な笑い声に紛れて聞き取り辛かった声が脳内でクリアに再生された。

「あいつ、殺した叔父じゃなくて自分の両親を一緒に連れて行ったんだ……」

 吉田は真っ青な顔で呟くと慌てて友人の後を追った。
 友人の部屋の前で追いつくと、気分が悪いと告げて家に帰ることにした。
 帰り道に寄ってみると、公園を囲むように植えられている夾竹桃の下に、何枚もの毟り取ったような葉が散らばっていた。

「……やっぱり」

 一人震える声で呟いた。
 この一件以来、吉田は責任を感じて家に引きこもるようになり、学校へも行かなくなった。幻覚を見るのが怖くなったのである。


 最後にこの病院、磯山病院へと来ることになった出来事を哲也に話してくれた。
 一年前の出来事なのに、先に話した二つの話よりもさらに遠い目をして吉田徹が口を開いた。「バケモノが……あいつら俺だけじゃなくて父さんと母さんまで襲うようになったんだ。だから、だからこの毛布で守ってやらなきゃ……俺しか見えないから俺が守ってやらなきゃ……」

 ボロボロの毛布をしっかりと抱きながら虚ろな目をして吉田は話し出した。


 吉田が引きこもって六年ほど経った頃のことである。中学にも高校にも行かずに二十歳になっていた。
 引きこもるようになってから幻覚はほとんど見なくなった。出掛けることもなく、部屋になら手の届く範囲に祖母の毛布があったからである。
 初めの三年ほどは心配していた両親も、しだいに扱いが悪くなってきた。
 その頃からまた幻覚を見るようになったのだという。初めは夜寝ていると枕元に黒い影が立つのが見えるくらいであった。吃驚はしたが毛布があったので怖くはなかった。影も立っているだけで何もしてこない。
 次に影は部屋の中をグルグルと歩き回るようになる。まるで何かを探しているようだが何もしてはこない。金縛りにあい、身動きができないだけである。丸めた毛布を抱いて寝ているから何もできないのだろう、そう思った吉田はその影にもしだいに慣れていった。 その頃の吉田は何もしてこない影よりも両親の方が怖かった。ずっと部屋に引きこもっている吉田のところへ時々顔を出してはこう言った。
「学校へ行けとは言わないけど、そろそろアルバイトでもして世間に出てみたらどうなの? 母さんこのままじゃ心配で仕方ないの、ずっと部屋に居て何になるの? 聞いているの?」
「人と会うのが嫌なら朝の新聞配達でもしたらどうだ。お前このままじゃダメになるぞ、父さんの知り合いの工場で働く気はないか? ダメならダメでいいから一度行ってみろ」
 心配そうな表情の母親、心配の中に怒りも見せる父親、二人が代わる代わる吉田を責めたてる。

「嫌だ。お化けが居るんだよ、俺には見えるんだよ、怖いんだよ。あんたら見えないやつには分からないんだよ、ほっといてくれよ」

 ベッドに丸まりながら何度も同じセリフを繰り返す。

 その頃から影が変わってきた。ぼんやりとした影がはっきりと形を成してきたのである。
 初めは後ろが透けて見えるくらいだったのが、墨のように真っ黒になり今にも掴めそうな実体として存在するようになった。だが相変わらず吉田に危害を加える様子はなかった。

 ある晩、金縛りが緩いのを感じた吉田が影に話し掛けた。「お前は何者なんだ? 俺に何の用がある。何もないなら消えろ、二度と来るな、消えろ。わしゃなもできん、つくなわやなく、ほかつけ、おまとかんあるほかつけ」
 吉田は強い口調で言うと続けて呪文を唱えた。祖母の毛布があると怖くはなかった。
 真っ黒な影が目もないのに吉田を見つめ、口もないのに口を開いたような気がした。

『おまとかんあるからきた。おまにつく、おまがよんだ、ブフフッ』

 くぐもった聞き辛い声でモゴモゴと黒い影が言った。
 初め何を言っているのか分からなかったが、何度かやり取りして意味が分かると、吉田はそのまま気絶した。

 それから半年ほどして、初めは口だけだった両親がついに実力行使に出た。
 吉田を病院に連れて行ったのである。もちろん心の病を見てくれる精神科と心療内科の病院だ。
 診断結果はよく聞く統合失調症である。入院するほどでもないと、軽い鬱に効く薬を処方された。両親は薬の効果が出るのを待っているのか暫くは何も言わなくなった。
 吉田は通院を続けたが、一向に良くなる気配はなかった。それどころか益々おかしくなっていった。黒い影が夜寝ている時だけではなく、昼間にも出てくるようになったのである。

『おまがよんだ、おまについた。かんけあるからおまにつく』

 影はハッキリと人形になり、穴のような白い目で吉田を見つめ、赤い口を大きくへの字に曲げてニヘラと笑った。
 黒い影はどこにでも現れた。台所や居間はもちろん、トイレにも風呂場にもだ。
 吉田には何もしなかったが、両親が居るところに現れると、大きな口を開けて頭から齧りつく素振りを見せた。吉田はその度に毛布を持ってきて黒い影を毛布で殴りつけた。そうすると影は消えるのである。影は必ず消える時に吉田を見つめてニヘラと嫌な笑いをした。
 その頃から両親がまた働けなどと口煩く言うようになってきていた。
 そして事件が起こった。

 その日も食事が終わった後で両親が揃って、働くか職業訓練所にでも行くかどちらかにしろなど口煩く言い始めた。
 吉田が誤魔化すように生返事を繰り返していると、両親が座っているソファーの後ろ、壁から吹き出すようにして黒い影が現れた。濛々と現れた影が大人の背丈ほどになっていく。
 影は母の後ろに立つと大きく口を広げてその頭に齧りついた。振りではなく本当に齧りついたのである。
 額半分まで影の口に齧られても母は何一つ感じていない様子だ。あまりに口煩く言われて腹の立った吉田はそのまま影を放っておいた。
 暫くして母が突然鼻血を出した。のぼせたのだろうと父がティシュペーパーを渡す。影は母から離れ父の頭に齧りついた。暫くして父も鼻血を出した。

 影のせいだ。影が父さんと母さんに何かをしたんだ……。吉田は慌てて自分の部屋から毛布を持ってくると父と母を庇うように無茶苦茶に振り回して黒い影を追い払った。
 だが、いつもは直ぐに消える影が今日はなかなか消えない。それどころか両親の頭と言わず腕や足など体のいたるところに齧りつく。半狂乱で毛布を振り回す吉田を今度は両親が取り押さえようと追う。吉田は丸めた毛布を広げると頭から母に被せた。
 毛布の中で暴れる母を押さえ付けながら、吉田が引き攣った笑みを浮かべて叫んだ。

「影が、黒い影のバケモノが……! 俺が守るからね、大丈夫だよ母さん」

 毛布の上から母に馬乗りになっている吉田を父親が慌てて引き離そうとするが、力は吉田の方が強かった。
 毛布の中でもがいていた母の動きが止まる。
 影が母から離れていく。吉田が安心して顔を上げると、影が父の頭に齧りついていた。引き攣った笑みを貼り付けた顔で吉田は飛び跳ねるように立ち上がると、父にも毛布を被せて母と同じように馬乗りになり押さえ付けた。

「大丈夫だよ父さん、影のバケモノなんかこの毛布があれば怖くないからね。俺が守ってやるから、父さんにも母さんにも手出しさせないからね、ふひひひっ」

 暫く暴れていた父が毛布の下で動かなくなった。
 黒い影が傍に立って吉田を見下ろしている。顔を上げると影と目があった。引き攣った笑みを浮かべる吉田の前で黒い影もニヘラと笑うと薄くなっていく。消えたのではない、影の居た所に人が立っていた。

「うぅっ!!」

 吉田が唸るような悲鳴を上げた。
 自分が立っていた。影が薄くなりその中から自分が、吉田徹が現れたのである。

『おまがころした。おまがやった。おまがわるい、おまがよんだ、ひひひひっ』

 もう一人の自分、影の吉田徹は顔面蒼白になっていく吉田を見て、嘲笑うかのように不気味な笑みを見せるとフッと消えた。
 騒ぎに気付いた隣人が通報する。
 ほどなくして警察がやって来て、放心したように座り込んでいる吉田と既に息絶えた両親を見つけた。

「俺じゃない、あいつがやったんだ。黒い影が俺に化けて父さんたちを襲ったんだ」

 譫言のように何度も呟く吉田の手には、しっかりと毛布が握り締められていた。
 精神鑑定の結果、吉田は罪を問えないとして近くの病院へと措置入院させられた。その後、見舞いにやって来た親戚から、もっと良い病院を知っていると勧められて磯山病院へと転院してきたのだ。

 以上が哲也に話してくれた吉田徹さんが体験した出来事である。

 話を現在に戻そう。近ごろ吉田の様子がおかしい。
 警備のバイトをしている哲也にも、先生から注意をするようにとの申し送りがあった。
 確かに何度か錯乱した吉田を見ることがあった。

「うわぁ、うわぁあぁ、来るな、お前は母さんじゃない、父さんじゃない、バケモノだ、俺を殺すつもりだ。毛布がぁ、毛布が効かない、何でだよ、何でだよ、うわぁあぁ、わしゃなもできん、つくなわやなく、ほかつけ、おまとかんあるほかつけ」

 錯乱した吉田が毛布を振り回し叫び声を上げながら廊下を走ってきた。
 取り押さえるために哲也は慌てて駆けつけた。近くに居た看護師たち数名とともに吉田を取り押さえる。
 哲也の顔を見て安心したのか、吉田はおとなしくなると口を開いた。
「一週間前からまた影が出たんだ。二つだ、二人だ。初めは真っ黒だったのが少し前から母さんと父さんに化けたんだ。バケモノだ。母さんと父さんに化けたバケモノが俺を殺そうとするんだ。首を絞めに来るんだ。毛布も呪文も効かない、消えないんだ。逃げなきゃ、ここから逃げなきゃ殺される。父さんと母さんを殺したみたいに俺も殺されるんだ」
 哲也の両肩を掴みながら話す吉田の目は真剣だが、その口元には引き攣った笑みが浮かんでいた。

 看護師に連れられて部屋へと戻る吉田に哲也もついていく。
 部屋に戻ると吉田は落ち着いた声で話してくれた。
 曰く、一週間ほど前から黒い影が二つ、部屋の中をぐるぐる回るようになった。吉田を見つけると真っ赤な口を横に伸ばして楽しげな薄ら笑いを浮かべる。吉田は毛布に包まり呪文を唱えた。

「わしゃなもできん、つくなわやなく、ほかつけ、おまとかんあるほかつけ」

 呪文を唱えると影は目を吊り上げ、口を裂けるほどに開けてこう言う、

『おまがやった。おまがころした。おまとかんあるからおまにつく、おまもしね』

 くぐもった声で呟きながら二つの黒い影が交互に首を絞めに来る。
 その黒い影が少し前から父と母に化けたのだという、両親の姿をしたバケモノが恨みのこもった目をして毎晩交互に首を絞めに来る。吉田は憔悴した顔で話すと引き攣った笑いを見せた。

 吉田が両親を殺してから丁度一年、罪の意識から幻覚を見るのだろうと先生が言った。

 果たして全て幻覚だったのか。全てじゃないとすればどれが幻覚なのだろうか。哲也には分からない、吉田自身も分からないのではないだろうか。
 哲也が見た、吉田の祖母が作った二枚重ねの安心毛布、ボロボロになったその隙間から布切れが見えた。その布に書かれていた呪いという字と梵字のような文字。
 吉田の祖母が言っていた呪文の意味。
「わしゃなもできん、つくなわやなく、ほかつけ、おまとかんあるほかつけ」
 とは、
「私は何もできん、憑くなら私じゃなく他に憑け、お前と関係ある他に憑け」
 という事だろう。
 ならば自分で殺した両親は関係がある。だから祓えなかったのではないだろうか。もしかすると、吉田の祖母は呪いの力、呪術によって霊たちから吉田を守ろうとしたのかもしれない。だとすると吉田は精神を病んだ病気なのだろうか、そうではなく本当に……。

 病状が悪化して隔離病棟へと移されて行く吉田徹を見送りながら哲也は思った。


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