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僕は、生きて、ここに戻って来たんだ……(『僕は、死なない。』第35話)


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35 退院

 7月10日の朝、妻がゴロゴロと荷物を入れるカートを引いてやってきた。僕は衣類や日用品などの荷物をカートに入れた。ふとメモ帳が目にとまった。このメモ帳には何月何日にどんな検査や治療を行なったか、誰がお見舞いに来てくれたのかが詳細にメモしてあった。

 6月13日に入院して、7月10日に退院か……何日入院していたんだろう?

 数えてみると、今日がちょうど28日目だった。

 28日か、いろんなことがあったな……お見舞いに来てくれた人を数えると、74人だった。

 こんなにたくさんの人が来てくれたんだ、ありがたいなぁ。この人たちの想いも、今の状況を連れてきてくれたんだ。本当にありがたい。僕はメモ帳を胸に抱いて、ひとりひとりの顔を浮かべて心の中でお礼を言った。

「今日で退院ですね、おめでとうございます」嶋田さんが嬉しそうに笑って言った。

「本当にお世話になりました。ありがとうございました」僕は頭を下げた。

「私も少しさみしくなります」

「僕もです。本当にこの病院は居心地がよくて……もっと入院していてもいいかなって、思うぐらいで……」

「でも、退院が決まって本当によかったです。これからもお大事にしてくださいね」

「ありがとうございます」

 嶋田看護師にお別れを言い、山越師長に挨拶をして約1カ月いたこの場所を後にした。

 食堂から見える素晴らしい景色とスカイツリー。

 明るい廊下や、感じのよい看護師たち。

 本当にお世話になりました。ありがとうございました。

 僕は心の中で、東大病院に別れを告げた。

 退院手続きを1階の入退院センターで行なった後、妻と2人で病院を出た。

 入院したときと違って、外は初夏の温かい風が吹いていた。

 こんな季節になっていたんだ。

 横を見ると、妻が笑っている。

 ああー、退院できて、本当によかった。なんて幸せなんだろう。

 病院を出て歩くと、まだまだすぐに息が切れた。股関節もズキズキと痛んだ。アレセンサを飲んでまだ10日あまり。そんなにすぐには効くはずもない。僕はゆっくり休みながら歩き、電車とバスを乗り継いで家に帰った。

「ただいまー」

 誰もいない部屋に僕の声が響く。ひと月ぶりに家に帰ってきた。不思議な感じがした。

 ここを出るとき、帰って来ることは想像できなかった。もう二度と帰って来ることはないと思っていた。それが、今、ここにいる。僕は、生きて、ここに戻って来たんだ……。胸の中がじーんとした。

「ちょっと休もうよ」妻が言った。

「ううん、お風呂、入りたいな」

 病院ではずっとシャワーだったので、湯船に浸かりたかった。妻がすぐに湯船にお湯を張ってくれた。

 湯船に浸かると、暖かなお湯の熱が身体にしみ込んできた。手や足の指先がジンジンと喜んでいた。

 あー、気持ちいいなー、お風呂って、最高。

 ん?

 そのとき、風呂場の床がカビで黒くなっていることに気づいた。

 おっ、カビてんじゃん。

 僕はタワシを取ると、ゴシゴシと床をこすり始めた。すぐに真っ黒な汚れがお湯とともに流れ出した。

 ゴシゴシ、ゴシゴシ……。

 ザーッとシャワーで流すと、床はぴかぴかになった。

 やった、キレイになったぞ。スッキリだ。

 ん?

 何やってんだ、僕は?

 退院したばっかなのに、風呂場の掃除なんかしてる……。

 キレイになった床を見ながら、思わず苦笑いしてしまった。


次回、「36 南伊勢へ」へ続く

僕は、死なない。POP


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