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ごめん、父さん、本当にごめん……。(『僕は、死なない。』第32話)


全身末期がんから生還してわかった
人生に奇跡を起こすサレンダーの法則


32 楽しい入院生活


 入院生活は楽しかった。あるとき、嶋田さんが言った。

「刀根さんはお見舞いがすごいですね。普通、週に2~3人なんですけど、刀根さんは毎日2~3人来るんですから。ベッドに刀根さんがいないときは食堂で誰かと話してるはずだって、ナースステーションでは有名になってますよ」

 そうだった。毎日誰かが来てくれた。ボクシング関係、仕事の心理学関係、親戚など様々な人たち。高校の同級生や、最初に勤めた会社の先輩と25年ぶりくらいの再会もした。

 試合の翌日に来てくれたボクサー、勅使河原選手は腫れ一つない顔で言った。

「刀根さん、俺、刀根さんは絶対に治るって確信してますから」

 長嶺選手が土屋選手と一緒に来てくれた日も面白かった。土屋選手は2週間ほど前の試合で勝利をおさめ、試合後のインタビューで現役引退宣言をしていた。僕のもう1人の教え子の工藤選手と4人で、僕たちはボクシング談義をはじめた。土屋選手が工藤選手に聞いた。

「ただのボクサーとプロボクサーの違いは何だかわかる?」

「いえ、わかりません」

「一番の違いは、お客さんが金を払って俺たちを観に来るってことだ。だから俺たちはその金額に見合うパフォーマンスを見せなきゃいけない。スゲーもんを見せて、満足して帰ってもらわなきゃいけないんだよ。後楽園ホールのリングサイド1万円だぜ、1万。ディズニーランドより高いんだぜ。ディズニーランドよりすげえもん見せなきゃ。それがプロってもんだ。ただ勝つだけなら意味はねえんだよ」土屋選手の目がまだランランと輝いていた。引退したとは思えない野性味あふれる瞳だった。

「確かに、土屋君はすごかった」

 僕は知っていた。彼は素晴らしい。逃げない、隠れない、小細工しない。華麗でド派手な入場から始まり、常に危険に身をさらし、ヒリヒリするような打ち合いに身を捨て飛び込んでいく。勝った姿も美しければ、敗けて散る姿も美しかった。当然、人気があり、彼の試合はいつも満員だった。

「僕も土屋さんを目指してます」長嶺選手が言った。

 土屋選手が少し寂しそうに僕を見て言った。

「刀根さん、俺、ヒーローになりたかったんですよ。仮面ライダーみたいな」

「いや、土屋君は既にヒーローだと思うな」

「そうっす、土屋さんは俺のヒーローっす」長嶺選手も即座に言った。

「えっ、そうっすかね?」土屋選手が小首をかしげる。

「俺、ヒーローっすかね?」

 僕が思うに、土屋選手はヒーローと呼べる域に達していた。男が惚れる男、それが土屋君だった。しかし、ヒーローである自分を一番認めていなかったのは、土屋君自身だった。

「ヒーローだよ」

「俺がっすか? 俺、ヒーローになっていいんすかね」

「自分がヒーローであることを、自分に許してあげるんだよ」

 そのときだった。あの魂の計画を気づかせてくれたフジコさんがやってきた。

「こんにちはー、あらまあ人がいっぱい。お邪魔かしら?」

「いえいえ、さあ、こっちに来てください」僕は椅子を持ってきてフジコさんに勧めた。

「彼は土屋修平君といって、ボクシングの前日本チャンピオンです、こちらは長嶺選手、僕の教え子で日本1位の選手、こちらも教え子の工藤選手。で、この人はフジコさん。僕の昔の友人というか、先輩」

「こんにちはー」

「よろしくっす」

 ひと紹介終わると、僕は先ほどの話を思い出してフジコさんに言った。

「土屋君、彼はみんなが認めるヒーローなのに、自分がヒーローであることを、許していないんですよ」

 土屋選手が照れて笑った。フジコさんは僕に顔を向け、静かな目で言った。

「わかった。なぜ彼がここにいて、今、あなたが彼にそう言ったか」

「え?」

「どういうことか、わかる?」

「いえ、わかりませんが……」

「彼は、あなたの鏡なのよ」

「鏡?」

「一番自分を認めていないのは他でもない刀根君よ。刀根君は、若いときからずっと素晴らしかった。みんなもそう思っていたと思う。刀根君はヒーローだった。今回の病気だってそう。でも一番それを、自分を認めていないのは刀根君自身でしょう?」

「ぼ……僕ですか?」

「あなたはね、彼を通じて、あなた自身に言ってるの、わかる?」

 ぼ……僕がヒーロー? 僕が? 全く考えたこともなかった。僕なんかヒーローであるはずがない。ありえない。僕がヒーローだって、ウソだろ? 僕みたいなヤツがヒーローでいいのか? こんな情けなくて弱い人間がヒーローだって?

「刀根君もそう、そしてあなたもそう。2人とも同じ」

 フジコさんは僕と土屋君を交互に見て言葉を続けた。

「自分がヒーローであることを許して、それからね……捨てるのよ」

「捨てる……」

 その日の晩、暗くなった天井を見ながら思った。自分を認めるってこんなにも大変なことなんだ。あの誰もが認める土屋君でさえ、そうだったのだから。どうやら人間という生き物は他人のことはよくわかっても、自分のことになると、全く見えなくなるらしい。僕もヒーローなのか……。確かに今回のがんからの生還劇はヒーローっぽい話だ。でもそう考えるとなんだか自分が他人よりも偉くなったようで、なんか違う感じがした。

 そうか、だからヒーローを捨てるのか。自分の素晴らしさを認め、自分を承認し、そしてそれにこだわらない。そこに居続けない。それをいとも簡単に捨て、身軽になって次の冒険の旅に出発する。そうか、それが、自分がヒーローであることを認め、そしてそれを捨てるということなのか。なるほど。

 漢方クリニックを紹介してくれたナンバさんも何回も来てくれた。真部会長は「ボクシング・マガジン」を持ってきてくれたし、僕のボクシングの教え子の1人、高橋拓海君は毎週来てくれた。僕は多くの人たちに囲まれて本当に幸せだった。

 ある日、両親がやってきた。僕はALKが適合したこと、アレセンサという薬が使えるようになったこと、その薬は治療効果が期待できることを話した。

「そう、本当によかった……よかったわ……」母はそう言って涙ぐんだ。

「やっぱり病院はすごい。東大は素晴らしい。科学って本当にすごいな」父は病院と薬を褒めちぎった。

「うん、多分、これ効くと思う。だから安心してね。今まで心配かけてごめんね」

「そうか、よかった。東大に入院して本当によかったな。病院のおかげだ。先生に感謝しなさい」父は嬉しそうにそう言った。

「まあ、そうだけどね」僕はなんだか釈然としなかった。

「ほら、買って来たぞ」父は真新しい「ボクシング・マガジン」を袋から出して、僕に渡した。それは先日ジムの真部会長が持ってきてくれたものと同じだった。

「ありがと、でも、いいや」

「え、いいのか?」

「うん、同じもの、会長が持ってきてくれたから、ほら」僕はそう言うと、棚の上にある「ボクシング・マガジン」を指差した。

「ああ、そうか」父はちょっと残念そうに言い、手に持っていた「ボクシング・マガジン」をバッグにしまいこんだ。

「じゃあ、私たちは帰るわね。先生たちにちゃんとお礼を言うのよ」母は念押しして嬉しそうに帰っていった。

 その日の夜だった。消灯して暗くなっても眠れない。なんだか腹の底がグツグツ言っている。ベッドの上をゴロゴロしているうちに時間が過ぎていく。時計を見ると午前2時を過ぎていた。

 このままだと眠れないな、ちょっと食堂にでも行くか。

 僕はのそのそとベッドを起き出し、暗い廊下をはぁはぁと息を切らしながら足を引きずって食堂へ行った。

 誰もいない食堂で、夜景が見える場所に座る。

 どうして眠れないんだろう? いつもなら、すぐに寝てしまうのに……。

 夜空にそびえるスカイツリーを眺めながら思った。

 この腹の奥でグツグツ騒いでいるのは、何だろう? これは何だ?

 ……怒り、それは怒りだった。

 何に怒ってるんだ?

 父だ。

 これは父に対する怒りだ。

 おかしいな悲しみや怒りは浄化したはずなのに……何でこんなに腹が立つんだ?

 僕は怒りの声を直接聞いてみた。すると……。

 いた。

 僕の中で怒りで叫んでいる子どもがいたんだ。

「なんで病院ばっか褒めるんだよ! 僕だって頑張ったんだ! 僕だって一生懸命、死ぬ思いで頑張ったんだ。必死で必死で、やってきたんだ。それなのに、なんで、なんで病院とか薬ばっか褒めるんだよ!」

 そうか……。

 そうだったのか……。

「そうだよ! 僕を褒めてよ! 僕を認めてよ! そのまんまの僕を見てよ!」

 そうか、こいつがまだ叫んでいたんだ……。

 そうだよな……そう思ったときだった。

 僕の目の前に白髪の年老いた父が現れた。それは書店で雑誌を探している姿だった。

「健が好きだから」

 そう言いながら広い書店を探し回り、棚から雑誌を見つけ、手に取った。

「よし、これは喜ぶぞ」

 父は雑誌を眺めると、嬉しそうに笑った。それは「ボクシング・マガジン」だった。そしてレジに行ってお金を払った。

 身体が、かーっと熱くなり、心臓が激しく脈打ち、涙が噴き出した。

 父さん!

 あの雑誌には、父の想いが詰まっていたのに。あの笑顔が詰まっていたのに。

 僕はなんと、その「ボクシング・マガジン」をつき返してしまったのだ!

 なんてちっちゃい人間なんだろう。

 ごめん、父さん、本当にごめん……。

 僕は、泣いた。


次回、「33 アレセンサと眼内腫瘍」へ続く

僕は、死なない。POP


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