ありがとうアレセンサ、ありがとうがん細胞。君たちは愛です(『僕は、死なない。』第33話)
全身末期がんから生還してわかった
人生に奇跡を起こすサレンダーの法則
33 アレセンサと眼内腫瘍
翌日、薬剤師が来た。
「今日から抗がん剤、分子標的薬のアレセンサを服用していただきますので、注意事項をご説明に来ました」
「あ、はい」
薬剤師はアレセンサハンドブックと書いてあるカラー刷りのパンフレットを僕に渡した。
「へえー、こんなものがあるんですね」
「ええ、そうなんです。えっとここに、このお薬の注意事項が書いてありますので、ちょっと開いていただいていいですか」
「あ、はい」
「これから毎日、このお薬を2カプセル、朝食と夕食の食後に服用していただくことになります」
「がんが消えたら、止めてもいいのですか?」
「いえ、それは医師の指示に従ってください」
「わかりました」
ハンドブックには、この薬を飲むことで注意しなければならないことが書いてあった。まずグレープフルーツを食べてはいけない。グレープフルーツには、この薬に対してよくない影響があるとのこと。それからあまり日光に当たらないこと。その程度だった。この程度なら日常生活には、ほとんど影響なさそうだった。副作用もいくつかあるようだが、通常の抗がん剤に比べると軽微なものばかりだった。
夕食後、その日の担当看護師がベッドサイドにやって来た。胸のバッジを見ると「がん専門看護師」と書いてあった。がん専門看護師は普通の看護師よりもがんに対してワンランク上の知識を持っていることを証明する資格だった。
「これが今日から飲んでいただくお薬です」そう言うと、通常の薄手のビニール手袋の上から、さらに厚手のビニール手袋をはめた。
手袋二重かよ。
厳重な手袋で渡されたのは、2つの白いカプセルの薬が入っているプラスチックの包装容器だった。
プラスチックの包装に入っているのに、二重に手袋をはめるのかよ。超危険物扱いなんだな。
「これが分子標的薬ってやつなのですか?」
包装にアレセンサと書いてあった。
「そうです」看護師は冷たく答えた。
「手袋をしているのは抗がん剤だからですか?」
「そうです。今、飲んでください」その声は余計な会話を受け付けない高圧的な響きがあった。
僕は言われるまま、カプセルを包装から取り出し、水と一緒に身体に流し込んだ。患者が飲んだ証拠にするためか、残った包装は看護師が回収し、そそくさと帰って行った。
うむむ……。入院して初めて、ちょっといやな気分になった。抗がん剤とはいえ、ただのカプセルだし、そもそもプラスチック容器に入っているのに、手袋をして扱うのはちょっと大げさじゃないのかな、しかも二重だぞ。
それが僕のアレセンサとの出会いだった。
この日から朝晩の食事後に、アレセンサを飲む毎日が始まった。
翌朝の朝食後、昨晩とは違う若い看護師がアレセンサを持ってきた。その人は手袋をしていなかったので、ちょっと嬉しかった。
僕はアレセンサを服用するときにやろうと思っていたことがあった。昨晩は看護師の迫力に負けてできなかったが、今朝からはしっかりやろう。それはカウンセリングをしてくれたさおりちゃんのアドバイスを、自分なりにアレンジしたものだ。
看護師が渡してくれたアレセンサを目の前の机に置き、手を合わせて心の中でつぶやく。
「私はこの薬、アレセンサを飲むことで健康になります。アレセンサ、君は愛の弾丸。君は僕の身体に入るとがん細胞とハグをします。そして二つは一つになって光となって消えていきます。ありがとうアレセンサ、ありがとうがん細胞。君たちは愛です」
そしてカプセルを水と一緒に飲む。身体の中に入ったアレセンサががん細胞と合体し、光り輝いて消えて行くイメージを脳裏に描く。不思議なことに、これをやると身体が光り始める気がした。僕はアレセンサを服用するとき、必ずこのおまじないをすることにした。
その若い看護師は不思議そうに、そして暖かい視線で僕が薬を飲み終わるのを待っていてくれた。
この日の夜から便秘になった。僕は今まで便秘を経験したことがなかった。アレセンサの副作用の一つの可能性として便秘があるとハンドブックには書いてあった。便がコロコロのカチカチになってしまった。
こんなにも即効性のあるものなのか。薬ってすごいな。
翌日から胸の中がチクチクと痛み出した。今までの痛みとは違う種類の痛みだった。
これは、アレセンサが効いてきているのだろうか?
翌朝シャワーを浴びたとき、鏡に映った自分の身体を見て衝撃を受けた。肋骨の影が鮮明に浮き上がり、お腹はぺっこりとくぼんでいて、腰骨が大きく突き出ていた。身体の厚みは極端に薄くなり、小学生のようだった。その姿は、まるでアフリカの飢餓の子どものようだった。すごいな、これ……。
体重はパジャマを着て51キロになっていた。実質は50キロくらいか。
ついに、減量なしでフライ級になっちゃったな。これで減量したら、確実に死ぬな……僕は笑った。
アレセンサを服用し始めた頃、視界がおかしいことに気づいた。
以前から右眼は黒っぽいシャッターが半分くらい降りていた。それは放射線治療が終わっても変化はなかった。視界に関しては、斉藤先生の話から2カ月くらいすれば治ると思っていたのだが、どうもそのシャッターが茶色っぽく変色し、さらに下に降りてきていた。
右眼で青空を見ると、青ではなく緑色の空が広がっていた。緑の空はSFの異世界みたいだ。また、眼球を上下に動かすと、視界の隅に毛細血管が現れた。自分の眼の血管が見えるというのも、不思議な感じだ。僕の毛細血管は美しかった。
きれいだなー、ベッドに寝ながら僕は自分の毛細血管を鑑賞した。
しばらくすると、右眼の中央が歪み始めた。視界の真ん中だけが魚眼レンズのように歪んでいた。四角のビルが、台形に見えた。おかしいな、なんだろう、これは。
左眼もおかしくなっていた。視界中央の下に茶色のハートが出現した。眼球を動かすと、ハートも一緒についてくる。
これは本当に脳腫瘍なんだろうか? もしかして、眼の問題じゃないんだろうか?
翌朝、嶋田さんに報告した。
「はい、すぐに先生に報告しますね」嶋田さんはそう言うと、すぐにステーションに向かった。しばらくすると若葉先生がやってきた。
「どうしました?」
僕は自分の視界について詳しく説明をした。
「先生、もしかして脳腫瘍の影響じゃなくて、眼が原因って考えられないでしょうか? 眼を調べてもらうことって、できます?」
「わかりました。手配します」若葉先生はそう言うと、いったん出ていき、しばらくすると戻ってきて言った。
「今日の午後に眼科の予約が取れました。そこで詳しく調べましょう」
「ありがとうございます」
さすが、ここが総合病院の強いところだな。
昼過ぎ、眼科の外来へ向かった。眼科は多くの人でごった返していた。眼科は直接命には影響の少ない病気のせいだろうか、呼吸器内科に来ている人に比べ、表情に悲壮感が少ないように感じた。
小1時間ほど待っていると名前を呼ばれた。検査の準備ができたらしい。
案内された部屋には眼の検査機器が所狭しと並んでいた。
「では、ここに座って、こちらを見てください。まずは右眼からです」
言われるままに検査機を見つめた。
「はい、正面を見てーはい、右ー……」
そんな感じで、次々と検査を受ける。1時間以上かけて、ありとあらゆる検査を受けた。
「検査の結果は先生に回しておきますので、お名前を呼ばれるまで診察室の前の椅子でお待ちください」
僕は診察室前の長椅子に座った。僕の横で何やら男性が看護師に話し込んでいるのが聞こえた。どうやら眼の手術が決まったらしい。
「どうしてもダメでしょうか?」
「はい、すみません、決まりなので」
「でも、取りたくないんです。絶対に」
「すみません、そういう決まりになってまして……」
「どうしてもダメなんですか? 本当に?」
「はい、すみません」
何を困っているんだろう? 僕は耳を傾けた。
「実は、これカツラなんです。私、これは取りたくないんです……」男性はがっくりと肩を落とした。
おお、カツラか……でも、カツラ取ったって死なないし……。なんだか微笑ましかった。
「刀根さーん」僕の名前が呼ばれた。僕は診察室に入った。そこには痩せた若い医師が座っていた。
「刀根さんは、えーっと、肺がん……ですよね」
「ええ、そうです。ステージ4です」
医師の顔が一瞬、固まった。
「えーっと、で、刀根さんの眼の検査をいろいろとさせていただきまして……」医師の歯切れが悪い。
「はあ、で?」
「実は眼に腫瘍が見つかりました」
「腫瘍ですか?」
「はい、肺がんが眼に転移したものだと思われます。これは、非常に珍しいケースです」
「そうなんですか」僕のがんは本当に働き者だ。
「で、両眼です」
「ほう!」
「右眼の歪みも、左眼のシミも腫瘍が原因だと思われます。えーっとですね……」
医師は眼の図を描いて、詳しく説明を始めた。
「刀根さんの場合、外から光が入ってきて、ガラス体を通して画像を映す膜、網膜という場所があるのですが、そこに腫瘍ができていることがわかりました。なので、シミや歪みが見えるのだと思います」
「そうなんですか……」
「眼の腫瘍は非常に珍しいので、当院にも専門家はいません。明後日、眼の腫瘍、眼内腫瘍の専門家が当院に来ますので、もう一度、その専門家の診察を受けてください」
「わかりました」
僕は眼科を後にした。まさか、眼にまで転移してるとは……。
ま、いいか、眼じゃ死なないし。
次回、「34 僕に不都合なことは起きない」へ続く
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