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蔵王山は縄文・弥生時代の巫女たちにとってどのような存在だったのか?【考察】

さて、私が昨年アーティスト・イン・レジデンスで訪れた宮城県遠刈田。私はそこで置屋跡を見つけたことから遊女の歴史に興味を持ち、遊女=巫女という仮説を立てて蔵王山にまつわる歴史をリサーチしていった。

遠刈田に遊女がいたことはこけし、置屋跡、町史、町の住民の証言から確定している。
遊女のルーツを辿ると平安期の白拍子(遊女(あそびめ))に関係すると思われ、さらにそれを辿るとシャーマンに行き着くと考えられている。
ところが、遠刈田の遊女達が巫女由来だった可能性は極めて低いことは別の記事でも書いた。
遠刈田に置屋等が整備されたのは江戸時代の後期からであり、観光客をもてなすためのものだった。
古来からいたシャーマンが遊女になったとは考えにくい。
では、蔵王山に関係するシャーマンはいなかったのか?というとそんなことはなさそうである。
その考察をするためには縄文時代まで遡らなければならない。
約5500年前の遺跡から「縄文の女神」と呼ばれる土偶が山形県域で見つかっている。他にも、約6000年前から約4000年前には遠刈田周辺で縄文人の暮らしの跡がある。
弥生時代に入っても遠刈田周辺には人々の暮らしがあった。
鍛冶沢遺跡がその証拠で、再葬墓の痕跡も見つかっていることから、人が定住していたことがうかがえる。
その間蔵王山はどのような様子だったのだろうか。
約7500年前には蔵王火山の活動が活発化している。
約3000年前に特殊な規模の水蒸気爆発を起こした跡がある。
弥生時代に入ってからは噴火が発生し、山が成長・移動を起こすほどだった。
つまり縄文時代〜弥生時代には蔵王山は爆発や噴火、変形を起こしていた。当時蔵王山周辺に住んでいた人々がそれらの様子を素通りしていたとは考えにくい。
なんらかの思いを寄せていたことだろう。

日本全国の遺跡から縄文時代〜弥生時代にはシャーマンが重要な社会的地位にいたのではないかと考えられている。
愛媛県上黒岩岩陰遺跡では女性を信仰の対象としたかのような遺物が見つかっている。
また、魏志倭人伝に記録されている卑弥呼もそうである。
当時の日本社会において、なにか霊的な力を持った女性が社会で重宝されていたのは紛れもない事実であろう。
佐伯順子著の「遊女の文化史」によると山は女性に例えられ、古来より信仰の対象になってきたとされていた。
火山活動を繰り返していた蔵王山が縄文時代〜弥生時代の人々になんらかの価値観を与えていたことは十分に考えられる。
時は流れて弥生時代から古墳時代へ移行すると巫女の存在意義も変化をしはじめる。政治の中心にいた巫女が王の政権を支える補助者へと変わり始める。
次に蔵王山に重大な事件が起こるのは8世紀の奈良時代。刈田嶺神社が登場する。
刈田嶺神社は現存する神社だ。
神社が登場するわけで、いよいよ巫女の本領発揮といきたいところだが、この辺に関する資料を私はまだ見つけられていない。
だが、山頂に神社があったことから、巫女(もっといえば人々)にとって蔵王山が特別な場所であったことは想像できる。

蔵王山を巡る巫女の歴史を辿るためには、私は当時の人達の死生観が大きなヒントになっていると思われる。
というのも我々の死生観と昔の人の死生観は大きく異る。
例えば弥生時代には人は死ぬと自然の一部になると思われていた。この「自然」という考え方も今のnatureとは異なるちょっと独特な捉え方なので注意が必要だ。
他界と交信できる場だったのが山である、という考え方は全国的に見られることだ。
平安時代に入ると、蔵王山が「人忘れずの山」と歌われている。
これは忘れられない山とも捉えられているし、背の高い山の向こうにいる人を忘れられない(遠方の友を思う)という解釈もされている。
だが、私はここに死生観が絡んでいるのではないかと思う。
「死んだ人を忘れられない山」と考えることはできないだろうか。


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