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❖散歩が散策へ、散策は探索に変わり、最後は思索の問題となっていた❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2022年2月12日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)

◆散歩が散策へ、散策は探索に変わり、最後は思索の問題となっていた◆
昨日、昼過ぎから何となく「散歩」をしたくなった。
自分の家の最寄りの赤羽駅から出発し、とにかく散歩しようと思って、線路沿いを歩いた。

そのうち、普段通ったことのある道ではなく、新しい刺激を求めたくなってきて、気になる建物や脇道があると、そちらへ向かう感じになり、「散策」となっていった。

すると道路に手袋が片方だけ落ちているのを発見した。そして、以前に、手袋は両方落ちているのが自然なのか、片方だけ落ちているのが自然なのかを綴ったことを思い出した。その手袋を何となく撮影し、私は散策を続けた。

しばらくしてまた手袋を発見した。今回も片方だけだった。以前の投稿通り、やはり手袋は片方だけが落ちているのが自然なのだろう。しかし、こうして歩いていると、このあとも手袋を発見するかもしれず、そのたびに撮影していけば、以前の投稿の確実な検証になるはずである。

最初の手袋は、何となくとりあえず撮影したわけだが、二つ目を発見し撮影した後から、私の中で歩いていることの意味が変わったのである。私はいつの間にか足元に気を配りながら歩いていた。それは手袋が落ちていないかというもので、「探索」なのである。

そうして何気ない風景の一部だったはずの手袋が、突然主役になる。手袋を意識して、路上に手袋がないか期待を持ち始める。そして期待に応えるかのように実際に見つかると、運命のようなものを感じるようになり、4つ目くらいからは、その出会いが必然に思えてくる。

最初はとにかく「歩くこと自体が目的」だったのに、しだいに「周囲の刺激を求めるような歩き」になっていって、気づけば「歩くことは手袋を探すための手段」になっていた。だから、散歩のやめどころを決める主導権は、歩くこと自体からは離れてしまい、いつやめるかは手袋との関係で決まるものになっていた。

そして、その「やめどころと手袋との関係」は、まず「量的なもの」から始まることになる。それは何個見つけたら終わろうというような「量的な目標(最初の量的な目標)」である。

しかし、いざそれまで掲げていた数に到達すると、もう少しという気持ちが出てくる。そして延長戦の数に達しても、満足・納得して終わりを受け入れようとしない自分の存在に気づかされる。なぜそうなるかというと、ある程度の数を発見したところで、最初の量的な目標は達成され満足・納得したのに、別の物足りなさが顔を出してきて、最初の量的な目標を認めなくなるからである。最初の量的な目標は、純粋に自己満足(私的自己意識)に関わる量だが、次第に、誰かにこのエピソードを語るならば、最初の量的な目標ではインパクトが足りないという意識が生まれるのである。この意識は周囲から自分がどのように見られているかに関わる「社会的自己意識」であり、「新たに生じる量的な目標(社会的自己意識による量的な目標)」はこの意識と結びついたものといえる。

その結果、発見した手袋が多ければ多いほどネタになると考えるようになる。すると、この自己満足から離れて設定される量には、自分としてこれで満足・納得という思い入れがないため、どうすれば量的に満足・納得するかを見失ってしまう。つまり量それ自体に、もはややめどころの明確な根拠はないのである。

それでも一応は、その都度、多めの切りの良い量が来たらやめようと考えるのだが、自分の中の必然性のようなものはとうに無くなっていて、いざその多めの切りの良い量が来たとしても、踏ん切りがつかず、どうせならもう少し多い切りの良い量がいいかもしれないという終わりのないレースが続いてしまう。

そうして、単に量を求めて彷徨う手袋の探索がしばらく続くと、そのうちに「高次の量的な目標」が根拠として新たに登場することになる。この目標は、発見した数々の手袋を材料として、その中に法則性やストーリーを見出すことによって、満足・納得しようというものである。

この目標によって、法則性やストーリーを見出し、何とか終わろうと思うのだが、それを考えている間にも新たな手袋の出会いがやってくる。そして新たに出会う手袋が、今までに出会った手袋と同種である確率は低い。そのため、新たな手袋が持つ情報が追加されることによって、直前まで築き上げていた法則性やストーリーにはどうしても綻びが生じてしまう。その結果、振り出しに戻されたような虚無感に陥るのである。

すると目標は更なる変容を余儀なくされるのである。それまでの手袋たちによって見出されるかに思えた法則性やストーリーを新しい手袋が打ち破るということは、それが他の手袋を圧倒する強烈な個性を持っていたと考えることもできる。それにも関わらず、個性豊かな手袋を、それまでの他の手袋の仲間に何とかして押し込めるために、法則性やストーリーに解釈を加えるのは大変な作業であるし、とても強引な試みでもある。

そのとき、今現れた強烈な個性の手袋を主役の座につけてみてはどうかというアイデアが脳裏をよぎったのである。そのアイデアによって、社会的自己意識のネタとしても十分に成立するということに気づけたわけである。これが次に登場してきた「質的な目標」である。ここまでくると、もはや自分の考え方次第であり、いつしか「思索」が中心的問題となっていた。

この「質的な目標」と結びついて、私を迷宮から救い出してくれたのは、一見手袋には思えないが、じっくり観察してみると、手袋の一種といえる「白き不思議なもの」であった。それは親指を通す部分と他の指を通す部分に大別されてはいるが、指の先端を覆う形ではなかった。だからこれは厳密には「亜種的な手袋」ということになるだろう。

それでも、この強烈な個性を持った「亜種的な手袋」のおかげで、ようやく「質的な目標」が達成され、やめどころを見つけることができたため、私の散歩は無事終わったのである。

この日の散歩は最寄りの赤羽駅からスタートしたわけだが、気づけば京浜東北線の田端駅の近くまで来ていた。これはもはや散歩ではなく、旅のようなものであった。この道のりをもう一度歩いて帰る気力はなかったので、帰りは電車を利用させていただいた。

結局、この日に私が出会った手袋は、亜種的な手袋を含めて「5枚」であった。それ以外に、途中で気になって撮影したものとして、赤いタオルのようなもの、靴下の丸まったもの、上着のようなもの、片方だけの靴があったので、それも紹介しておくことにする。

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