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★我楽多だらけの製哲書(25)★~時間に追われる日々の活動とアウグスティヌス~

私が「授業者」として板書ノートを作り、黒板でそれを「表現」していることについては先日も触れた。この板書ノートに書かれた内容を単に黒板に示すだけならば、速度においても正確性においても、AIを活用した方が良いのではないかと時折思うことがあるが、もし授業というものが単なる情報の伝達活動ではないとすれば、そこに授業者としての人間の存在意義が見出せるのではないかと最近考えるようになっている。その際のキーワードが「表現」ではないだろうか。授業は決して「情報の伝達」に留まるものではなく、違和感があるが「情報の表現」と言えるものであって、前者が情報を届けるという最終的な結果を視野に入れた無機的な活動であるのに対して、後者は情報をどのように届けるかという過程に重きを置く有機的な活動であると私は考えているのである。だからこそ「授業は表現活動」と捉えることができるのである。このように授業を表現活動の一つと考えた場合、連想するのは「落語」である。落語は何らかのストーリーを噺家が身振り手振りも交えて状況を演じて見せたりもしながら表現するものであるが、ストーリーそのものに大きな驚きや意外性があるとは限らず、しかし噺家がテンポ・リズム・タイミングを巧みに利用して展開することによって、面白さを生み出しているのである。つまりストーリーだけが示されたとしても、そこには面白さはない可能性が考えられるのである。そこに噺家が用いる話術がスパイスとして加わることによって、ストーリーは生き生きとしたものに生まれ変わるのである。これはまさに「情報をどのように届けるかという過程に重きを置く有機的な活動」であり、プロセスがスパイスになっていると考えられる。

だからこそ、授業者としての私も、板書ノートを準備しただけでは全くもって有機的な活動を可能とする表現者にはなりえないわけで、その板書ノートをどんなテンポで、どんなリズムで、どんなタイミングで表現していくかシミュレーションしておかなければならないのである。実際、板書ノートをギリギリで準備したときは、そのシミュレーションまで手が回らないので、上手く表現できないという経験を数多くしている。またギリギリの準備ではなく数日前に板書ノートを作っていたとしても、授業で上手く表現できないときは、同様にシミュレーションのための時間を設けていない場合がほとんどである。やはりシミュレーションによってプロセスについて考え、それをスパイスとして授業そのものに練り込んでおくという仕込みが欠かせないわけである。そうして授業は美味しくなるのである。

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さて、そのように授業者として悪戦苦闘している日々を送っているが、私は同時に「学習者」としても悪戦苦闘しなければならない状態にある。現在、私は2つの大学で通信教育の授業を受けている。一つは「学芸員資格の取得」に関するもので、もう一つは「小学校教員免許の取得」に関するものである。本末転倒にならないように、授業者に関わる様々な業務を最優先で考えてはいるが、合間合間を利用してテキストを読んだり、レポート課題に取り組んだりしている。当然、時間は奪われるが、新たな学びによって自分の中に新鮮な情報が入り込んでくるのは楽しみでもある。

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さらに、私は去年から「執筆者」としても活動している。探究関連の書籍の執筆については夏に4冊目を出版したことをもって一段落しているが、大学入学共通テスト関連の問題集や模擬試験への問題提供の依頼があるので、そのために執筆をしているわけである。先日、以前に提供した問題が収められた問題集が完成したということでZ会から献本をいただいた。そして現在も、別の問題集への問題提供のために執筆を行っている。

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「われらの主なる神の助けを受けて、わが力の及ぶかぎり、聖三位一体は唯一の真の神であること、また父と子と聖霊は同一の実体あるいは本質であると正当にも語られ、信じられ、知解されること、に対する根拠を提示したい。」
これはローマ帝国のキリスト教神学者であり、ラテン教父の一人であるアウレリウス・アウグスティヌスの著作『三位一体論』の一節であるが、彼は神が父と子と聖霊という位格(ペルソナ)を持っているが、それは別々のものではなく、あくまでも一つの実体(スブスタンティア)であるという「三位一体説」を展開した代表的人物の一人である。

(以下、考察は続く)

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