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遥か昔のこと 【エッセイ】

以前、職場の先輩に誘われてとあるライブを観に行った。
場所はライブハウス兼カフェのような所で、先に入っていた先輩の待つテーブルへ行くと十人ほどの輪が出来ていた。
その日の演者もいれば他のライブハウスに出ているバンドマンもいたりと、そこはいわゆるミュージシャンのテーブルになっていた。
席へ座って数秒後。目の前に座っていたのはその日のトリを飾るユニットのベーシストの青年だったのだけれど、僕の顔を見るなり驚いた顔になっていた。

「あの、昔バンドでギターやってましたよね? 俺、先輩のステージ見て音楽やろうって決めたんすよ! ライブ終わりに話し掛けたの覚えてないっすか?」

おぼろげな記憶をたどり、右手(弦を押さえない方)の速さを熱心に褒めて来た少年がいたことを思い出した。あぁ、あの子がこの青年なのか。
嬉しくも恥ずかしさもあり、覚えていてくれたことに礼を伝えた直後に、青年は気まずそうな顔を浮かべた。

「でも、最後やばかったっすよね。俺らみたいなガキの間でも事件のこと、話題になってましたもん」

そう言われた途端、周りが一瞬身を固くするのを感じ取った。
迷惑を掛けてしまった他のバンドの一人が今日来るかもしれないから、こりゃ不味いかもしれない、とか囁き始める。
あー。やっぱりまだ覚えてるんだなぁ……と苦い思いをしつつ、僕は遥か昔のことを思い出し始めていた。

高校二年にドラムに誘われて組んだバンドはメンバーチェンジやパートチェンジを経て、高校卒業後はプロを目指してライブ活動に熱を上げていた。
ある時期にベースが勉強の為に脱退を申し出て、代わりに高校時代の友人をベースとして迎え入れた。
彼は彼で音楽の専門学校へ通いながらのバンド活動だったし、方向性の違いでギクシャクしたりすることもあった。
その彼が入ってから数ヵ月後に、僕らのバンドは解散した。
正確に言うと解散せざるを得なかったし、僕は環境から逃げ出した。

昔のバンドの世界というのは良くも悪くもめちゃくちゃ縦社会かつ体育会系だった。先輩は「絶対」であり、打ち上げへ行けば血反吐が出る寸前まで飲まされることはザラだった。
僕が尊敬する先輩はもちろん居たし、色んな助言に救われることも多々あった。
だけど性根が面倒くさがりに出来ている為、曲と歌詞を全て担う代わりに人付き合いなどの「対外交渉」役をドラムとベースにほぼほぼ任せきりにしていた。
楽屋ではボーカルと僕、ベースとドラムで二分することが多くなり、話しをする度に彼らとの感覚のズレみたいのを感じ始めていた。

そんな頃、青年が言っていた「事件」が起こった。
とある大きなイベントの打ち上げに誘われていたドラムとベースはその日の練習が終わると、意気揚々と会場へ出向いて行った。
バンドも人気がやっと出始めた来た頃で、イベンターのはからいもあって名の知れたバンドマン達と接点を持つ場を作ってくれていたのだ。
夏や年末になったら大きなライブに出れたりするのかなぁなんて夢想しながら家に帰り、打ち上げを任せていた僕は呑気に作曲に勤しんでいた。

翌朝、起き抜けと同時に着信があった。相手はドラムで、話しがあるから外に出て来てくれと言う。
何事かと思いながら外へ出ると、車の中で項垂れているドラムとベースの姿が目に飛び込んで来た。車に乗り込んで「どうしたん?」と聞いても、二人は項垂れたまま中々口を開こうとしなかった。
まさか解散しようなんて突然言われることもないかなぁ、と思っていると、ドラムが「ごめん」と謝った。

「ごめんって、何があったん」
「俺ら、出禁になっちゃった」
「出禁って、飲み屋とか?」

僕らの世代のバンドマンというのは先輩も含めて極めて素行がよろしくない者が大変多かった為、ライブハウス付近の飲み屋では出禁になっているお店が沢山あった。ひどいお店になると入口に「バンドマン禁止」なんて張り紙がある店なんかもあったり。
どうせ店で何かやらかしたのだろうと思っていると、出禁になったのは店ではなく僕らのホームのライブハウス、そして関東一円にある名の知れたライブハウス全てだと知った。
どうしてそんなことになったのか意味が分からず訊ねてみると、酔いに酔い切ったベースが「今日呼んでくれた先輩達全員に話があります」と前置きをし、その場に居る全員に向け、こんな言葉を発したのだと言う。

「僕らはあんたら全員を踏み台にして上にあがるんで、踏み台になって下さい。よろしくお願いします」

バカチンもバカチンである。バカチンと叫ぼうとした武田鉄矢がバチカンと間違え、ローマ法王と二人で揃って「バチカンがぁ!」と白目を剥いて叫ぶくらいの大バカチンだったし、そんな風に先輩を舐め倒した発言をする大馬鹿者はいくらパンク界隈と言えども他に居なかった。
発言直後に二人は責めに責められ、会場を追い出され、イベンターには朝方まで説教され、その後ライブハウスから呼び出しを食らった挙句、店長直々に

「おまえらもう出禁ね。他のライブハウスにも回しとくから」

と宣言され、その足で僕の所へやって来たのだと言う。
僕は突然の出来事に放心状態になってポカーンとしてしまった。えええええ……と思っていると、他のバンドマン達から「大丈夫?」というメールが数件届いていることに気が付いた。

僕らはその日限りで、干されてしまったのだ。しかもライブハウスに通う「キッズ達」(この言い方好きじゃないけど)の敵にもなってしまった。
拠点を失った僕らは都内の本当に小さなライブハウスへ逃げ場を求め、それでも何とか細々と活動を続けた。
事情を知らない他のバンドマンから優しい声を掛けられたりすると嬉しかったけれど、すぐに頭に「事件」のことが過ったりした。
都内にあるMという小さなライブハウスに二度出た後、その店からも僕らは「出禁」を伝えられた。本当に狭くて嫌な世界だと、音楽そのものが嫌いになりそうなくらい、反吐が出た。
けれど、本当に嫌なのは他の誰かとの関りを全て人任せにしたり、メンバーに対して心を開こうとしない自分自身だった。
肝心な話しをしようとするとわざとお道化て逃げたり、話しが面倒臭くなりそうになると直ぐにはぐらかしたりしていた。

何とかしがみつくようにバンドを続けていると、そんな自分と向き合う時間が多くなって行った。
多くなり過ぎて、その内嫌気も差し始めた。
自分の所為じゃないのに、なんでこんな目に遭うんだ。
そんなことばかり考えるようになった。
高校を卒業した頃、スタジオに向かう車内はいつも下らない馬鹿話で溢れていた。
気が付いた頃には車内には無言の時間が流れ、バンド内も閉塞的で気詰まりな時間が増えて行った。

そんな最中、ボーカルとその彼女の間に子供が出来た。ボーカルはあっさりと脱退を宣言した。
高校生の頃、まだギターを弾いている姿をあまり人前に見せない僕を「一緒に本気でバンドやらない?」と誘ってくれたのはドラムだった。
そのドラムが、ボーカルの言葉を聞いた後にこう言った。

「三人で、これからどうして行こうか」

その言葉に僕は言ってはならない、彼が思ってもいなかったであろう言葉を返してしまった。

「俺も抜けるわ」

ドラムはしばらくの間、無言でハンドルを握っていた。
僕の自宅近くに差し掛かると、涙を流し始めた。信号待ちで停まった車内で、ハンドルを叩きながら怒りに震えていた。

「おまえにバンドやってたなんて、一生言わせねぇからな! 絶対に言わせねぇからな!」

僕は謝ることすらしなかった。もう、解放してくれとさえ思っていた。
結局他人に任せきりな人付き合いの悪さを反省することもせず、「それでも」と思うこともなく、ドラムの心からの声に耳を向けることもなく、逃げ出したのだ。

解散ライブが決まった。解散が決まると不思議なものでわだかまりが溶けて行き、車内は再びくだらない笑い声に包まれた。
最後のライブは出禁になったあのライブハウスで決まった。僕らが望んだのもあったけれど、その時のブッキングマネージャーの方、そしてスタッフの方々が店長に対して頭を下げてくれたのだ。絶対にダメだと認めない店長とスタッフの間で本気の喧嘩になったと、マネージャーのOさんは笑いながら電話口で言ってくれた。

ライブは条件付きで認められた。
平日のド素人が集まるイベントで、かつ僕らの出番はトリではなく頭だった。
それが嫌なら認めないとのことだったけれど、その頃の僕らはホームで全力の音が出せればもうそれだけでよかった。
最後のライブだけあって、多くの人達に見守られていた。三十分の持ち時間はあっという間であまりに楽しくて、何が起こっていたのかなんてちっとも覚えていない。
はるばる札幌から観に来てくれたあるバンドのボーカルの人は、僕らに挨拶すらしなかった。
来ることさえも聞かされていなかったのに、アンケート用紙に「カッコよかったよ」とだけ書き残してあって、本物のロッカーはやることもロックだなぁなんて感動したりもした。すぐに気が付いて追い掛けたけど、もう居なかった。
だいぶ年上なのにいつもタメ口だったの、今になって本当にごめんなさい。

最後の打ち上げで僕は泣きに泣いた。他のテーブルで号泣するドラムを笑いに行ったのに、座った一分後には号泣していた。
僕が小さい頃から家庭に難があって性格的に人に無理強いしたり直接的なことを言わないのをメンバーはずっと察してくれていて、いつも「こうしたいんじゃないかな」なんてことを相談していたのだと言う。
僕が人付き合いなのが苦手なのも知っていたから、その役割を引き受けてくれていた。しかも捌けないチケットの代金も、曲作りの時間の分として出してくれていた。けれどそれに見合うだけ、僕が作る曲が好きで信じてくれていたとも。

どれだけぎくしゃくして気詰まりな時間を過ごしていたとしても、蓋を開けてみれば彼らは本当にいい奴らだったのだ。
自分だけの世界や考えで塞ぎ込んで、自分だけの答えを出して逃げていたことがとことん情けなくなったし、彼らの優しさが心に痛むほど嬉しかった。
泣いて泣いて泣きまくった翌朝、練習に迎えに来る車がないことが途端に寂しくなったりした。

それからドラムとベースは新しいバンドを作った。僕はソロで活動し始め、ボーカルはラーメン屋へ転職した。
ドラムとベースの新しいバンドを観に行く最中、僕は自分で作った曲をボーカルに聴かせていた。ボーカルは嬉しそうに笑いながら

「たけちゃんの作った曲って感じで、俺好きだなぁ」

そう言ってくれたけれど、ライブ終わりにドラムに聴かせたら

「ぬるい音出してんじゃねーよ!」

と怒られてしまった。
それからまたバンドは解散し、ドラムはプロになった。ベースは音楽の道を諦めてナンパ職人みたいなことをしていたけれど、やがて本気の恋に落ちた。ボーカルは神奈川の方で家庭を築いた。

ドラムは数年前にプロを辞め、ドラムもやめた。
小説を書く縁で数年前一度だけ連絡したけれど、彼は元気そうだった。
その時に「一生バンドやってたなんて言わせねぇからな」
と言われたことを伝えると、彼は「そんなこと言ったっけ?」とまるで覚えてない様子だった。

僕は相変わらず人付き合いが億劫で苦手で、その癖うわべの愛想だけは良いままだ。
あの頃と少し違うのは塞ぎ込んで自分に嫌気が差すことはなくなったということと、音楽を作ることを辞めたこと。
いつかまたやりたいな、とたまには思ったりするけれど、今は書くことが如何に大変かを痛感してるから毎日余裕も持てずに四苦八苦しまくっている。

青年と出会ったその日、来たら不味いんじゃないかと言っていた先輩は革ジャンとハンチング帽という出で立ちで僕の前にやって来た。
歳月を重ね過ぎてしまったけれど、メンバーの舐めた態度を今さら詫びると先輩は「まぁ、若かったからな」と許してくれた。
けれどたとえ舐めた態度でも本気だったから、それは分かった上だったからだろう。表情はニコリともせず、真剣なものだった。
やっぱり何年経っても先輩って怖いもので、そして偉大だと思い知った。

こないだまだあの頃の情報ってネットにあるのかと思って探してみたりした。まだ紙の方が主体だったのもあるけれど、時が経ち過ぎていて当然のように一つも出て来なかった。
一緒に数々の苦い思いをした他のバンドも解散情報どころか、名前すらヒットしなかった。
みんな音楽の世界から幕を引いたんだと分かったけれど、普通じゃない世界で表現を続けていた人達が普通の人になるのがどれだけ難しいことで尊いものかが今なら分かる。
だから普通の人になって手乗りサイズくらいの小さな幸せでいいから、大事にそっと包んでいて欲しいとも思った。
思うだけで直接伝えようとはしない辺りは、変わらない僕なのでそのままにしておこうと思う。

短くも躓きながら走り抜けた季節を、本当にありがとうございました。
僕らの為に頭を下げてくれたスタッフの皆さん、そして僕のことを僕よりも理解してくれていたメンバーの皆、今さらだけど本当にありがとうございました。

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