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【小説】 卵 【ショートショート】

 卵を買った。精子が卵子を目指し、遺伝子の海を泳いだ結果、出来上がった命のある卵である。
 
「有精卵」

 と表示されたやや高い値段の卵に、私は不思議と心を強く惹かれた。
 スーパーマーケットに並ぶ生活に必要な数々の品の中、たった一つ「有精卵」という文字が、一体どうしたものか、光りを放っているように思えたのだ。
 トイレットペーパーを棚に戻し、鯖を陳列ケースに戻し、チョコレートを戻し、私はたった一つ、有精卵のみを買ってスーパーマーケットを出た。

 何故たった一つ、不要だった物を手にして買いに出たはずの物を棚に戻したのか。
 それは私にも分からなかったが、心は妙に浮き足立っていた。白いレジ袋の中で揺れる茶色の卵が私の心を愉快にさせ、事実、足取りも軽くさせた。

 角の煙草屋で立ち止まり、一本火を点ける。
 チリチリと音が鳴り、煙と灰がすぐに生み出される。
 その光景に、妙に新鮮な気持ちになり、煙を肺に入れる前にもう一度だけ煙と灰を生み出してみた。
 
 それを思い切り吸い込んでみると、見事に咽せた。
 咽せて咳込み、胃の辺りの筋肉がきゅっと痛んだ。
 その間に前を通り掛かった六十程の夫人は口元を押さえながら、怪訝な目で私を見下していた。
 しかし、そんなことで私の軽やかな気持ちが萎えたりはしなかった。

 それは「有精卵」が手元にあるからで、それが手元にある限りは私はしばらくの間愉しげな気分でいられると信じて疑わなくなっていたのだ。
 ここまで話しておいて何だが、伝えておきたいことがある。

 私は卵が好きでもなければ嫌いでもない。
 ましてや、鳥の種類に詳しい訳でもない。
 生き物の違いとして分かるのはせいぜいカラス、スズメ、鳩くらいなものだ。目に見える範囲で、生活の外にいる鳥に興味も湧かない。
 鶏肉を食う機会はあるが、特別旨いと感じる事もない。

 ちら、と袋の中を覗くと、有精卵の眩い光加減はちっとも変わらなかった。それに安堵しながら煙草の二本目に火を点けると、電話が鳴った。

「もしもし? 紗香だけど」
「あぁ、どうした?」

 電話は、別れた女房からの電話だった。
 私はこの女に対しては珍しいほど軽やかな声で応えたが、女の声は私とはまるで違っていた。人のみを傷付ける剣のようであった。

「肇君、なんで来てないの?」

 突然そう言われたのだが、頭の中で沢山の霧が立ち込めるばかりで一体何の要件でこの女が電話を寄越して来ているのか、さっぱり見当がつかなかった。
 私は曖昧な相槌を打ちながら、思い当たることが何もないのでそのままを答えた。

「来てないって、おまえとは何の約束もしてないだろう」
「はぁ? 肇君さ、それ本気で言ってる?」
「当たり前だろ。何を言っているんだか」
「はぁ……。いいわ、やっぱり別れて正解だった」
「そんなこと、今さら確かめてどうするんだ。何なんだ、その約束とか何とか……遠回しにばかり言ったって俺に分かるはずがないだろう」
「水子」

 その途端、全ての音がこの世界から消え去った気がした。煙草屋のすぐ真裏で、緑色の電車が音を立てて走っているが、まるで音が聞こえて来なかった。
 それでも店のガラス窓だけは、カタカタと揺れているのが見て分かった。

 やがて知り尽くしたはずの街は明と暗のコントラストを次第に強調して行き、それが白と黒になるまでそう時間は掛からなかった。白い猫と黒い猫が寄り添いながら目の前を歩いているが、それが元々白猫なのか、黒猫なのかも分からなかった。だが、赤い猫はこの世で見たことがないな、と冷静に思う自分も在った。

 電話口からもしもし、と言われている気がしている。
 何度かそんな気がしているのを無視していると、卵はいつの間にか地面に落ちて輝きを失っていた。

 真っ白の外に、中はドロドロと真っ黒な黄身が混ざり合っている。粘り気のある液体が絡まり合って、一つの卵になる。
 それに指を伸ばせば糸を引きそうで、私はあれだけ輝いて見えていた卵をその場に置き去りにして歩き出す。

 もしもし、と聞こえて来る。風が強く吹き、背後で煙草屋のガラス戸の開く音が聞こえる。

 振り返ると真っ黒な口の中を見せながら、店主の老婆が笑っていた。

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