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文の造形

近頃、想像に対して頭が回らない。
以前は単発テロのように小爆発が起きような発想や物語が次から次へと浮かんでいた気がしていたけれど(気がするだけかもしれない)、最近は書き溜めたストックを漁りながら何とか形をつけたような物が増えた気がする。

そんな時は「スランプがやってきた!」と右往左往しつつ、公園のベンチに腰掛けてみたり、電車に乗っては他人の世間話に熱心に耳を傾けたりもしていたのだけれど、今は寒過ぎるのかそんな元気すら無くなっている。

年齢も若者という部類では無いため、これも仕方なし。
そう思う部分はありながらも、自分の書いたものを読み直したり、逆にネットには出さないような中~長編の作品の構想に時間を割いたりしている。

そんなことをしつつ静かに四苦八苦足掻いている中で、文学とはいったい何を指すのだろうかと基本的な所へ立ち返ってあれこれ考えてみたりもしている。

文章表現、文章芸術というのはビジネスで使われる言葉とは掛け離れた存在であって、同じ日本語で構成はされているけれど一方は用途があり、一方はある種の用途・目的というものが存在しない。

読み手がそう思えば「そう」で完結されるものであって、信じ込ませることが出来たなら、その瞬間、それは用を成したことになる。
ただ、ここで誤ってはならないのが信じ込ませることがあっても、勘違いをさせてはならないという点だ。

僕は頭を使う部類の作品(殺人ミステリーとか)は書けないので、意図的にミスリードを誘うような文というものは構成しない。
それが故、読んだ人間が後になってから「あれ? あ、ここはこういう事だったのね」と思うことがあったのなら、それは僕の文章構成のミス以外、有り得ないことになる。

この辺りのことを考え出すと今度は用途あり前提のビジネス文章と通ずることが発生し、それはつまり「文章の敷地整備」ということに尽きる。

見た目だけはキレイで真っすぐな道路でも、実際に走ってみて車体が振動したり揺れたりするのならば、それは悪路と呼ばれるに違いない。

最近自分の書いた物を読み直してみて、少し距離を置いて離れた所から眺めてみたらまぁ、随分と荒れていた。
それは細かなミスの話ではなく、文と自分の距離感が近過ぎるあまり、全景が見えないまま書いていたのだと感じてしまった。

小説が文章「芸術」と呼ばれるのなら、アート然り、全体像を眺めながら書くのが必須になる。
美しい躯体なのに勇ましい腕を書きたいがあまり、腕にばかり熱意を注ぎ込んでしまったなら、せっかくの美しいバランスというものがかえって崩れてしまうことになる。

そんなことをぼんやりと考えてみたら、やっぱり文章も芸術なんだなぁとか、造形とはそういうことだよなぁとか、勝手にふむふむ納得してみたりしていたのだ。

という訳で、手直しした同じ作品を何度でも投稿してみようと思った。
手をつけた作品は内容があまりにも毒づいているせいか、noteでは人気があまり無い作品なのだけれど、それでも構わないので直して載せてみる。

人気があったからその作品に自分の中で贔屓めいた感情が生まれるのかと言えば全然そういう事じゃねーな、というのは書き続けて来て確信を持って言える唯一の事かもしれない。

ただ、楽しんで文の造形が出来ればそれでよし。

皆さんも良き造形を、是非お楽しみ下さい。

※直しの作品はこの後掲載します。

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