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【小説】 朝寒の柚子
寒の強い朝だった。
小さな通りの石垣の向こうに柚子が実っていた。
散歩がてらに見つけた冬の実りに季節を感じていると、柚子の木が大きく揺れた。
その家の主人らしき人物が鮮やかな黄色に手を伸ばすのが見え、私は咄嗟に目を伏せる。
厭らしい人間だと思われることを恐れ、ついそうしたのであったが、その一瞬の隙を突くように主人の声が頭上から降って来た。
「良かったら、持って行って下さい」
私は自分の頬がこれでもかと紅潮して行くのを感じた。
それほど、物欲しそうな眼をしていたのだろうか。
柚子を買えない身なりにでも見えたのだろうか。
胸中より溢れ出る恥ずかしさを余らせ、堪らず逃げ出したい気持ちになった。
しかし、このまま黙って立ち去る訳にもいかず、私は声を返した。
「良いんですか?」
勇気を振り絞り、主人の合図を待った。
しかし、次に聞こえて来たのは主人の声ではなく、女の声だった。年頃はおよそ、六十半ばくらいだろうか。
「あら、じゃあ幾つかもらっていこうかしらね」
「ええ、どうぞもらって下さい。どうせ腐らせてしまいますから」
「ありがとうねぇ」
ただでさえ恥ずかしさを余らせていた私は、行き場のない恥の思いをさらに積み重ねた。
声を掛けたのは石垣の向こうにいる、私からは姿の見えない婦人に対してであって、私ではなかったのだ。
勇気を振り絞って「良いんですか?」などと答えてしまった私は、自分がつい主人に見られているものだと思い込んでいたことに、自分の馬鹿らしさ、阿保らしさを痛感した。
もういい。一刻も早くこの場を立ち去ろう。
そう思い、歩き始めた。すると柚子の木が再び揺れ、白髪をひっつめた厳めしい顔が木の向こうから現れ、私を見下ろした。
蛇に睨まれた蛙の気分で歩みを止めた私は、その彼の姿に、強い何かを連想する。
あぁ、あの姿だ。
寺の入口に立つ、仁王像だ。
有無を言わさぬ荘厳な立ち姿の、あの仁王像を彼の姿に思い出したのだ。
心の内からは恥の思いは消え失せ、その代わりに罪の意識と畏怖とが入り混じったような、明確ではない思いが雲のように漂い始める。
「良かったら、どうぞ」
主人は柚子を幾つか入れたビニール袋を、私に向けて差し出してくれた。
聞こえていないだろうと思っていた声は、主人に届いていたのだ。
私は深く頭を下げ、感謝の気持ちを伝えたうえでそれを頂戴した。
ビニール袋の柚子は所々黒い斑点が浮かんでいたものの、それでも見事な柚子に変わりなかった。
歩きながら何度かビニール袋の中を覗いてみたが、柚子は柚子のまま、袋の中に存在している。
立派な黄色だ。
そんな風に黄色に対して感じたのは、生まれて初めての経験だった。
私は黄色という色に、これほどまでに立派だと思うことは、今の今までなかった。
何かを選ぶ時、例えば服や車など敢えて黄色を選んだことはなかったし、それはそもそも自分に黄色は到底不釣り合いな色だと思っていたからだ。
なんとなく、黄色は間が抜けた感じもするし、胡散臭い感じもする。
しかし、人の気持ちを明るくする色だろうとも感じるし、エネルギーめいたものを感じる色でもある。
そう言った生に対して前向きな色合いというものを、自然と拒否していることを何となく思いながら再び、ビニール袋の中を眺める。
黄色の表皮が目に入り、次に所々に浮かぶ黒い染みに目が向いた。
明るい太陽に浮かぶ黒点のように、それはぽつぽつと浮かんでいる。
消そうと思っても消えはしないだろう黒い染みを眺めている内に、やはり自分はこちらに近いのだろうと思いながら、ビニール袋の口を閉じた。
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