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違う月を見ている

日本国内にも時差がある。
国内では標準時刻しか使われていないので、正確には時計を見て誰にでも分かるような時差はない。
国内で体感出来る時差。それは緯度と経度のもたらす太陽の傾きだ。

北海道の最東端と沖縄の最西端でテレビ電話(言い方古い?)を繋いで見ると多分、薄闇と夕方ほどの差があるんじゃないかと思う。

視点で感じる時差はなんと二時間近くもあるそうで。だからと言って、日本も中々広いもんだなぁ!ワッハッハ!狭い日本!そんなに急いでも案外大丈夫かもしれない!アクセルブーン!ドカーン!はNGなので注意。

閑話休題。

――――彼の人も、今は同じ空を、同じ月を見上げているのだろうか。

そんな風に想いを馳せる相手の地に、実は月が出てない可能性だってあるのだ。
が、決してイジワルで言っている訳ではない。小説紛いのような物を書いてる身分なので、人様のロマンをぶち壊す気はない。

何が大事かと言えば、同じ月を見上げていて欲しいと願う気持ち。

別れてしまった人、離れてしまった人、会いたい人。
そんな離れている相手を想う気持ちは、いつも何処かひっそりとしていて、大切で、そして声に漏らすことは滅多にないのではないだろうか。

過去を振り返って、会いたい人は確かにいる。
会えなくなってしまった人も、大勢いる。

かなり素っ頓狂な生き方をして来たおかげで、思い出すのも憚られてしまう相手もいる。
人に迷惑なら散々掛けて来たし、心配も多く掛けてしまった。

二十五、六の辺りだったか。自殺未遂をしたお陰で、一時は誰とも連絡を取らず、全ての他人との関係を断とうとしていた頃があった。
会いたくても会えない、と言うより人に会う資格が無いと強く思っていた。

半年ほどしたある晩。ほぼ幼な馴染みのDが突然僕の家にやって来た。
日頃から一緒に遊んでいたし、たかだか半年ぶりにも関わらず、だいぶ会っていないようにも思えた。
玄関に立って頭を下げようとした僕より先に、Dが口を開いた。

「カブトムシ捕まえに行こう」

僕は笑った。
彼は虫網と虫カゴを持っていた。
僕を勇気付ける為に冗談めいて言った訳じゃなく、ただ真剣にカブトムシを捕まえに行く為に、僕を誘ったのだ。

夜、藪の中へ入ったが結局カブトムシは捕まえることは出来なかった。

けれど、この時は僕の事情なんか一切おかまいなしでカブトムシを捕まえに僕を誘った彼の行動に救われた。
こんなに楽しいのに、なんで赦されないと思っていたのだろうと自分の馬鹿さ加減にほとほと呆れた。

人は基本的にしょうもない。
その加減に大小あれど、誰も彼もが不完全なまま生きている。
不完全だから他人を求めたり、自分を知って欲しいと思ったりする。
創世記に倣って神様が人を作ったのだとしたら、あえて人を不完全に作ったのかもしれない。
その方が神様は人々を安心して愛せる上に、人々は誰かを想って空を見上げる。
神様は人が空を見上げた瞬間に自分と目が合うように、自分が寂しくならないように、そう仕向けたのかもしれない。

こんな事もあった。

「なんだよ、年末◯◯(僕の本名)くん、こっち帰ってくんのかよ!?」
「はい。たまには帰ろうと思います」
「うっし! じゃあ飲み決定なっ! クロに予約入れさせっからよ。それも仕事のうちっしょ!」
「頼みます」

相手は異動前の職場の先輩で、ずっと世話になっていたFさんという豪快な男だった。
その年末、僕は運悪く盲腸を患って結局飲み会に参加する事は出来なかった。

そして、Fさんは春の花が咲き誇る山の中の一軒家で、自身でその命に幕を下ろした。
「まさか」というのは予期出来ないからこそ「まさか」なのだ。

そんな「まさか」の積み重ねが、また僕を人から遠去ける日常をもたらした。
以前よりは酷くはないが、自然と他人との間に壁を作るようになった。
良く言えば誰にでも愛想が良い。
悪く言えば何を考えてるか分からない人。

今日、隣席のおじさんが仕事中の僕にこんなアテレコをした。

「俺はよぉ、テメーらペーペーと違って忙しいんだよ。話し掛けんじゃねぇ。ぶっ殺すぞ」
「なんですか、それ」
「そんな顔して仕事してたよぉ?」
「いやー? ごく自然ですけどね」
「リラックスしなきゃあ、ダメだよ」

そこそこ話す相手だから全然笑い話に出来たけど、そんな風に思われてるのか、と改めて痛感した。
確かに昔は「話し掛けんな」とは常々思ってはいたりした。
今はそうでもない、と思ったけど無意識が顔に出ているのだろうな。少し、反省した。おじさんが良く話をするおばちゃんと話し始めたので混ざってみた。

六十手前なのに、おばちゃんは最近大型バイク免許を取って、夢だった外車のナナハンバイクで通っているらしかった。
見た目も本当におとなしそうなおばちゃんなのに、僕は心底驚いたし何より楽しかった。
やっぱり人って面白いなぁと思えたし、何となく小説を書いていて良かったとも思えた。

僕は人が嫌いな訳じゃなくて、たまに自分が疲れてしまうから苦手なだけなのだ。
けれど、もうFさんの時のような後悔なんかしたくないと最近思い始めている。

コロナになって人と人が会いづらい状況も拍車を掛けた。
「またね」が「まさか」に変わる瞬間に怯えている自分もいる。
僕は人よりだいぶ臆病だから、人と会う時になると極端に喋るようになる。相手を笑わせて、精一杯のサービスをしようと取り繕う。
実はそういうのもヤメにしようと、近頃は実践するようにしている。

会いたい人がいる。そんな贅沢な事はあるだろうか。

会いたくない、と思うよりずっと前を向ける感情だ。
僕はコロナ前に「会いたい人に会いに行こう」とTwitterか何かで発言した。それが頓挫した途端、色々と面倒になって結局はコロナを言い訳にするようになった所もあった。

でも最近、会いたい人にはやっぱり会いに行った方が良いだろうと思えるようになった。
その人が、自分が、いつ「まさか」になるかも分からない。
でも、そんな想像をして身を震わす暇があるなら「またね」と言えるようになりたい。
そして、いつか「久しぶり」と言いたい。

誰にだって「会いたい」の瞬間があるはずと、思いたい。
そして、それを突き動かす力が人にはあると信じたい。
恋、愛、友情、尊敬、ライバル。理由は何だって良い。
一方的な憎しみならば、それが誰を赦すのか一度立ち止まって考えて欲しい。誰が、ではない。

見上げた空。浮かぶ月。見える角度は違くても、見上げた空の向こうで神様が気まぐれを起こして二人を繋げてくれるかもしれない。

夜が生き物の手の中で感じられる季節は短い。
あなたの外に広がるのが、きっと暗がりばかりじゃない事を願っている。

※冒頭の写真に月がないのは「見上げてみて欲しい」という僕の伝わりにくく狡賢いトンチのおかげです。


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