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【小説】 閻魔様の話し声 【ショートショート】

 死んだらすべてがチャラになると思っていた。
 獄中でのたれ死んだ俺は、薄れて行く意識の中で「この世界に勝った」と思いながら死んで行った。はずだった。

 薄れて行ったはずの意識から目を覚ました俺は、全身を襲う悪寒、関節の激しい痛み、指先ひとつ動かすことさえ億劫になるほどの怠さを感じた。

 横たわっていた身体を起してみると、目の前に巨大な閻魔大王がいた。
 その昔、漫画で見たことのあるフォルムそのままだったからすぐに閻魔なのだと理解した。

「大井哲、貴様は今世で快楽のために人を五人も殺めたヒトデナシだったな。よって、地獄行きに処する」
「おい、ここはどこなんだ? それに、なんでこんなに身体がおかしなことになっているんだ……」
「ここは死後の裁判所。その身体の苦痛はな、業がもたらした結果だ。地獄にたどり着いてもその苦痛は永らく貴様と共にあるぞ」
「地獄か……ふふっ、覚悟はしていたさ。すぐに行けるんだろ?」
「おう、地獄はすぐそこだ。近いぞ」
「身体が怠くて仕方ないが、行ってやろうじゃないか」
「うむ。地獄はな、そこの扉を開いて、真っすぐ歩いてたったの五千年だ」
「五千年!?」
「わはは! 近いだろう! 自分が何者だったかさえ忘れた頃になったら、ちょうど着く頃だ。さぁ、さっさと行った行った」

 絶望的な気分のまま重たい身体を引き摺るようにして扉を開くと、目の前いっぱいに真っ赤な空間が広がっていた。

 上下左右の感覚がなくなるほど一面真っ赤な景色で、勇気を振り絞って扉から足を一歩踏み出してみると、真っ逆さまに落下した。

「うっ、うわぁ!」

 落下しながら叫び声を上げていると、上空から閻魔の声がした。

『ははは! いきなり道を踏み外したようだな。貴様はそのまま百年落下し続ける。百年後、目が覚めたらまた元の扉の入口に戻っていることだろう。ははははは!』

 そんな。たった一歩踏み間違えただけで……。
 絶望の上書きを味わった俺だったが、道を踏み外さないように五千年も歩いた先にさらに地獄が待っていると知り、落下しながら俺は自分で自分の首を思い切り絞めた。
 遠退いていく意識。こんなことなら魂ごと消滅してしまった方がよっぽどラクだ。

 そう思ったが、遠退いてプツリと切れた意識が覚めると俺はまだ落下を続けていた。

 落下は人生よりも遥かに長かった。
 百年が経ったのだろう。落下は緩やかな感覚になり、気が付くと元の扉の入口に戻っていた。

 今度こそ踏み外さないよう、境目も何もありゃしない真っ赤な空間を一歩一歩確実に足元を確かめながら、歩き始めた。

 一面真っ赤な地面でも、つま先で硬い所に触れるとそこが足場だと気が付いた。なんだ、これなら無事に進んで行くことが出来そうだ。
 ゆっくりと足元を確かめながら歩いていると、上空から断末魔のような女の悲鳴が聞こえて来た。

「え?」

 上を見上げると歯のない真っ黒な巨大な口がぽっかりと開いて、俺はあっと言う間に飲み込まれた。

 飲み込まれた後は鮒が腐ったような匂いがする粘液に溺れながら、そいつを飲み込んではあまりの臭さに吐きながら、何度も何度も意識を失っては目を覚ますことを繰り返した。
 そうしてやはり百年ほどが経った頃、俺はまた扉の入口に戻されていた。

 何も考えないことを考えながら、意識しながら時を過ごしているうちに、俺は俺の持っていた記憶がどんなものだったか、徐々に失い始めていた。

 殺した女の名前はとっくの昔に忘れてしまったし、どんな風にして殺したか、何度も思い出しては射精していた最期の顔すら、すっかり忘れてしまっていた。

 三度目の赤い風景を進んで行くと、二年ほどした所で背後にゾッとするような気配を感じて振り返った。
 真っ赤な風景の奥の方から、あの真っ黒な巨大な口が俺を目掛けてとんでもないスピードで迫って来ているのが見えた。

 バクバクと口を開けたり閉じたりしながら、俺を狙っているのを本能で感じた。
 これは喰われる、と焦った俺は足を踏み外し、再び真っ逆さまに落下し始めた。

 落下しながらもう百年が過ぎるのを待っていると、上空からこんな声が聞こえて来た。

『閻魔様、大井哲がまた落下したようです』
『そうか。まぁまた百年後も落ちるだろうがな』
『いやぁ、地獄も手が回らないっていうんで委託を受けてみたけど、案外ラクなもんですねぇ』
『そりゃあうちで請け負った「無限落下地獄」はラクな部類の地獄だからな。鬼の連中は今日も今頃針の山でヒィヒィ言いながら働いているだろうよ』
『まさかこれが地獄だなんて、大井哲も思っていないでしょうねぇ。あ、もしかしてこれ聞こえてますかね?』
『ははは! どうせ忘れる。それに、地獄まで五千年だなんて言ったけれど、アイツは永遠にあの空間から出られないんだ』
『あはは! そうでしたね』

 真っ逆さまに落ち続ける俺は、もう考えないことを考えるのさえ止めた。
 新しく考えなければならないことが、増えたからだ。

 それは、何かを感じることそのものを止めなければならないということだ。
 もう、何をどう足掻いたって俺は死ぬことすら出来ないのだ。
 こうして、長い年月を掛けて俺は俺でなくなって行くことを覚悟した。

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