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波は荒立ち、流る骨

その日は風のない寒い午後だった。
昼休みを前に所長がうちの部署にやって来て、天井まで積み上げられた在庫のエアコンをじーっと眺めながらこんな事を言い出した。

「なぁ、大枝。あれ、下ろした方がええんちゃうか?」
「いや、平らにすると置き場ないですよ」
「せやったら一番手前のヤツだけでええわ。地震来たらえらいことやで」
「まぁ、手前の列だけなら。分かりました」

後々見回りに来たら面倒なので、すぐに現場のフォークマンに頼んで積み上がったエアコンを下ろしてもらった。そのわずか二時間後の出来事だった。

マグニチュード9の大地震が東北地方を襲った。

その瞬間、僕は埼玉にいたけれど現場の誰もが「関東大地震!」と叫んでいた。
今まで経験した事のないほどの揺れ方に、みんながパニックになっていた。
いよいよ来たか、という気持ちが確かに僕にもあった。

揺れている最中でもトラックバースから逃げだす従業員達の動きは迅速だった。

倉庫内に誰か残されていないか安否確認を行い、全員が避難出来たことを確認するとドライバーや他の従業員同士で情報を集め合った。

携帯電話が使えなかったものの、電車が停まり、お台場が燃えていると情報が入った。やっぱり関東に大きな地震が来たのかと思っていたら、なんと震源地は東北だった。

家に帰ろうにも、レールが歪んだ為に電車は運休となっていた。先輩の車に乗せてもらい、なんとか帰宅すると我が家の両親は神妙な面持ちで携帯電話であちこちに連絡を取ろうとしていた。
うちの両親は共に宮城県出身なのだ。

母方は丸森という福島との県境に住んでいて、その頃には親戚付き合いが全くなくなっていたので誰に連絡を取るという事もなかったし、津波の心配もまるで無い場所だった。
父親の兄が古川という場所に住んでいたので、その為に連絡を取ろうとしていたのだが電話は終始不通だった。

翌日になり連絡が取れ、近所の体育館に避難しているとの事だったが女川に住む親族に連絡が取れないのだという。
女川の親族は毎年獲れたての海の幸を送ってくれる漁師一家で、うちの家では「海のおんつぁん(おっちゃん)」と呼んでいた。

あの手この手で安否確認しようとしても、津波で街は壊滅的な打撃を追っていて連絡の取りようがなかった。
何とかならないものかと思っていると、女川に住む加藤さん(仮名)という女性がおんつぁん一家の安否を体育館のネットを使って僕に知らせてくれた。

津波がやって来て家ごと流されたものの、おんつぁんは女川港沖に流される我が家の屋根のアンテナに必死にしがみつき、ラッキーなことに引き潮になった時にそのまま女川港へ戻って来て怪我もなく無事だったという。

しかし、山へ避難したものの銀行通帳を取りに戻った奥さんのトメさんは、おんつぁんの足下の我が家で津波に巻き込まれ、その命を落としてしまったのだという。
墓に入れようにもとてもそれどころではなく、火葬するにもかなり時間が掛かっていると加藤さんは教えてくれた。

その一ヵ月半後。僕は両親と妹二人と共に女川へ向かった。
理由は寺に置きっぱなしになっているトメさんの遺骨を引き取る為だった。

東北道を北へ北へ向かうと、福島あたりから道路が割れている箇所が所々増え始めた。春とはいえ、寒さに凍えそうになる真夜中にも関わらず、あちらこちらで色んな作業員達が必死になって働いていた。
知らない他人の日常を取り返す為に働ける人達を、生まれて初めて尊いと感じた。

父の実家に行くと、瓦が落ちて家の基礎にヒビが入っていた。屋内は片付いていたが、ガスの供給がいまだにされていないと言っていた。自衛隊が近くの体育館に風呂を用意してくれているので、それに入ってると教えてくれた。

寺に行くにも幾つもの道路がまだ復旧していないとの事で、父の兄も案内人として一緒に車に乗り込んで女川へ向かった。
震災の映像はニュースで散々見ていたので悲惨な状況が宮城全土に残っているのかと思っていたが、出発して早々はそんな光景に出会うこともなく、ひたすら春めいた長閑な景色が広がっていた。

通行止めの道を迂回しながら石巻を通り過ぎようとした途端、長閑な景色に慣れて来た多少の安堵感が絶句に変わった。

橋を渡るベビーカーを押す若夫婦の背後で、高圧線の鉄塔が飴細工のようにひしゃげ、川の中に倒れていた。
市内の大きな病院前では多くの人達が物資を搬入出していて、片付け切れない瓦礫の山が路肩のあちこちに積み上げられていた。

「あっち行ってみろっちゃ。もっとすげーんだ」

父の兄が言う方向に車を走らせると、長い通りの路肩のすべてに瓦礫の山が形成されていた。路肩に並んだ緑色のフェンスの向こう側。走れど走れど、人の生活が壊された跡が路肩に続いていた。何も語らずに積み上げられた人の形跡は、まるで墓場のようにも思えた。

山を抜けて女川へ入ると、思わず声を失ってしまった。
山中に流れついた舟や洗濯機は流されて来たそのままの姿で放置されていて、身を寄せ合うように岸に流れ着いた真新しい住宅はどれもこれも人が住める状態では無くなっていた。
遠景から山を眺めるとくっきりとしたラインで葉っぱが黄色に染まっていて、父の兄が

「潮でやられたんだべちゃ」

と教えてくれた。あの高さまで津波が来たって事なんだな。そう思うと、津波を起こした自然の力の凄まじさをありありと感じてしまった。

お寺へお骨を引き取りに行くと、まだ引き取られていない骨が遺影と共に多く残されていた。蝋燭の灯る薄暗いお堂の中に所狭しと並ぶ遺影の若さの多くに、運命の無作為による命の残酷さを垣間見たりもした。

並ぶ遺影の中、住職が指を差したのは高校生の男の子だった。付き合いはほとんどないが、遠い親戚なんだと言っていた。その遺影の隣にはまだ幼稚園児くらいの女の子の遺影が並んでいた。可愛らしいおさげに、胸が鋭く痛んだ。

骨を引き取った後は小さな頃に何度か訪れたことのある漁港に足を運んでみた。
しかし、漁港は跡形も無くなり真っ白な灰の瓦礫と化していた。鮮魚を加工する工場の骨組みだけが残っており、辺りを歩くと魚の腐敗臭がたちこめていて、蠅があちこちで飛び回っていた。打ち上げられた魚に群がる蠅が多く発生したせいで、あちこちで虫が湧いていると現地の人が教えてくれた。

建物の屋上に津波によって乗り上げられたバス。破壊され尽くした沿岸部の病院。
朽ちた漁船の群れと、歩けば足の裏に当たる釘の数。
夏休みにみんなで船に乗り、漁船に乗って魚を獲ったり海に飛び込んだりした風景があったはずだったが、その場に立つと同じ場所に立っているとは到底思えなかった。

トラックが砂煙をあげ、人の作った瓦礫の山を少しずつ街の外へ吐き出していた。
住民の多くは山の上に作られた仮設に移ったと言っていた。買い物が出来なくてみんな困っている、とも。
山の上なら確かに津波は来ないが、生活できるかどうかはまた別の問題になって来る。しかし、この場所に住めといわれたら多くの住民は「はい」としか言えない状況だったのだろう。
父の兄から仮設に住む人の話として、ある言葉を聞いたのだが到底ここでは書けない言葉を辛辣に述べていた。

家も店も漁港も、すべてが流されて消えてしまった。

そう思っていたが、親戚の漁師さんが誰よりも早く仕事を再開させてテレビに出たのだと教えてもらった。
車を出すとたまたま不在ではあったが、元気に養殖を始めていると言っていた。この場所を離れないとも言っていた。

街は想像以上にボロボロだった。それでも、想いの残る場所で生きようとする人の強さを感じながら、街を去る事にした。
そこに住んでいない人間には労ることすら出来ない無力さも感じていた。

車を発進させると、トラックが舞い上げる砂煙の向こうで移動販売のお兄さんが一人で瓦礫の山の前に立ち、弁当を売っていた。

潮風が吹き始めた午後に、弁当屋のピンク色ののぼりがパタパタと揺れていた。
その色は遠く離れてもまだ見えていて、お兄さんがたった一人で佇んでいるのも見えていた。
小さくなって行くその姿が何かに向かって深くお辞儀をしたのが見えたのだが、おかしなことに客はおろか辺りには誰もいなかった。

何のためのお辞儀だったのだろう。その相手は人だったのか、形を失くした街だったのか、それとも瓦礫を運び出すトラックだったのか。
それは分からなかったし、今でも分からない。

あの人もきっとここから、また新たに始めているんだな。
そう思いながら、トラックが巻き上げる砂埃に時折消えてしまうその姿を眺め続けていた。

あの日からずいぶんと月日は流れたが、いつの日かまた訪れてみようと思っている。
その頃には誰かの声に触れられるだろうか。また、新たな思い出となり日々の一つとして重なるのだろうか。

そんな事を想いながら、当時の記憶をここに書き記して置く。

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