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年老いて尚、変わらない 【エッセイ】

中学生の頃、男の大人がとかく怖くて仕方なかった。
僕の生まれ育った環境では男の大人が登場せず、その第一筆頭者である父親も家には常に不在だった為、男の大人とのコミュニケーションの取り方が分からないまま育ってしまった節が、どうもある。

中学生になると年上の先輩がやたら怖く見えて、実際に多感な時期な故、そういった「先輩風」に吹かれる場面も多々あった。
中学、高校と部活は文化部だったから先輩後輩の概念の中に身を置くことは幸い少なかったけれど、その頃から自分が大人になった時に当時この目で見ていた大人に果たしてなれるのかどうか? と常に疑問視していた。

すいません、すいませんと電話をしながら頭を下げたり、居酒屋でクダを巻いた帰りには頭に鉢巻代わりのネクタイをして千鳥足で帰宅し、翌朝押し黙ったまま電車に揺られて真っ直ぐ会社へ向かう。
いやー、想像しただけで吐きそうになるけど、なるんだろうかなぁ、なんて考えていた。

結果、ならなかった。
今の時代の30代、40代は当時に比べてだいぶ若造り化が進んでいるので当時のマイナス10すれば丁度良い塩梅になるんじゃないかと思う。
僕自身、若造りとまではいかないものの、体型は高校の頃と全く変わらない状態をキープするように心掛けている。
それでも腰を下ろせばやや摘めそうな腹肉を弄んだりしながら、あー、これが老いるという事なのかしら、と夜な夜な都市伝説や奇怪な事件の検証動画を眺めながら思ったりするのだ。

これから先は年齢にもっともっと足を深く踏み入れて行く訳だが、そうなると「老人」というものがぼんやりと果ての方に実態としての姿を現すようになる。
いやいや、待て待て。
僕自身、アラフォーなんて呼ばれる年になるのに中学生の頃から中身が全く変わっていないぞ。
このまんまで良いのだろうか?
と思うはずもなく、いいのである。
 
昔、仕事場の上司が僕のしでかした失敗の為に他所へ頭を下げてくれた。
散々詫びたがこれが仕事だから気にするな、と言った後、ひとしきり緊張した空気が解けたので先程のやり取りを反芻しながら

「大人って大変ですね」

と、人ごとのような想いをぽつりと零してみた。
すると、その上司は笑いながら言った。

「大人にならなきゃいけない時だけ、大人になれるのが大人なんだよ」

その頃、その上司は丁度今の自分と同じ程の年齢だったと思う。 
今ではその言葉の意味がとても理解出来るし、朝から晩まで「大人として、社会人として」なんて生きている奴はよっぽど世間知らずかコミュニケーション不足か、そのどちらかだろうとも思えるようになった。

あの時の上司の言葉は、今も僕の中で生き続けている。

そしてこのまま老いた時、ドラマや漫画に出てくるような老人に僕はなるのだろうか? と考えてみたりする。
しかし、そんな老人はいないだろう、ということにも気付く。

一人称が「ワシ」なんて老人はボクシングの山根元会長しか知らないし、ふぉっふぉっふぉなんて笑い方をする老人がいたとしたら、不自然極まりねぇなコイツ、と思うに違いないのだ。

多分、意識が対外的な要素に慣れて行くだけであって、いきなり一人称が「ワシ」に変わることなんてないだろうなぁと思うし、きっと死ぬまで中学生のままの僕でいるんだろうなぁとも感じている。

昔はえらい屁理屈をこねくり回し、斜めからしか物を見れない人間だったけれど、素直でいる方が今はずっと楽だし何より疲れなくても済む。外に向けてひん曲がっているのも実は体力がいるのだ。

僕は当面このままでいようと思うし、とりあえず先のことよりも今を大事にする心掛けは忘れないようにしようと思う。
昨日も、その前の日も、そしてもっともっと前の日も、それらが積み重なった結果、今があるのだから、そう思う。

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