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【小説】 熟れたトマト 【ショートショート】

 大した仕事ではなかった。問題はその場所だった。懐かしい駅前のロータリー。変わらない街並。行き交う人の多さは相変わらずで、駅から吐き出されたり吸い込まれたりと、誰も彼も忙しない。
 車の中でそんな光景を眺めていると、窓がノックされた。僕は急いで鞄から急遽現場で必要になった部品を取り出した。

「渡瀬さん、わざわざ持って来てもらっちゃってすいませんね」
「いえ、そんな遠くでもなかったし。うちに在庫あって良かったです。工事、間に合います?」
「ええ、おかげさまで何とか」

 家電の工事を行っていた業者が昼過ぎになり、水道工事用の部品がないと電話を掛けて来た。発注を掛けていたが納品が間に合っていなかったのだ。幸いうちの会社の倉庫にストックがあった為、ドライブついでに会社を出た。
 現場の住所をカーナビに入力し、地図が表示されてから僕は「あ」と一人で小さく驚いた。
 その場所は十年前、僕が当時の彼女と同棲していたアパートのすぐ近くだったのだ。地図に表示された駅名、百貨店の名前ですぐにピンと来た。十年も経てば住んでいた市は覚えていても町名まではすぐに思い出せないものなのか、と自分の記憶力を怪しんだりしながら車を走らせた。
 
 部品を受け取った業者がバンを発車させ、その姿が消えてから駅付近のコインパーキングを探し始めた。駅前の狭い路地を抜け、銀行の脇にあるパーキングに車を停めた。
 十年前。僕は彼女をアパートに一人残したまま、この街を去った。
 共通の趣味だったマイナーバンドのライブで知り合ったのがキッカケで仲良くなり、彼女から告白されて付き合うことになったのだが、僕はそれほど彼女の事が好きだった訳ではなかった。
 仲良くなるにつれ、僕に嫌われないように一生懸命に振舞う彼女が何だか可哀想に思えて来て、情の結果付き合う事にしたのだ。
 コアなファンに人気の豚骨ラーメン屋の前を通りながら、昔した会話を思い返す。

「愛美、夕飯何食べよっか?」
「私はね、たまにはエスニックが食べたいかなぁ」
「ふーん。俺、ラーメン食いたいんだよな」
「そっか、そうだよね。賢治さん、ラーメン好きだもんね。私もラーメン好きだしさ」

 当時、僕はそんな彼女の態度に苛立ちを覚える事もあった。何で自分の好きなもの、好きな事を優先出来ないの? と言葉をぶつける事もあった。
 仕事が終われば僕が部屋に居るのを確かめるように寄り道もせず真っ直ぐ帰宅し、僕が好きなものなら何でも知りたがった。そんな彼女に皮肉を籠めてこんな言葉を返した事がある。

「賢治さんって何してる時が一番落ち着く?」
「一人で居る時だよ」

 彼女は一瞬、悲しそうな顔を僕にしたけどすぐに笑顔になり頷いた。

「私も」

 そんな嘘をつかなくていいんだよ。そう言いたかったけど、言った途端に何もかも面倒に、そして虚しくなりそうな気がして僕は言葉を止めた。
「好きじゃなくても付き合って行くうちに好きになればいいんだよ」
 そんな事を言う奴がいるもんだから、僕は彼女を好きになろうと努力した事もあった。
 古いモノクロ映画が好きな彼女と映画フィルムやグッズを扱う小さな店に連れ立ったり、街外れにあるミニシアターに通ったりした。
 昔のヨーロッパ映画のポスターの前で淡い溜息をついた彼女を眺めながら、僕は「新しい映画もいいよ」と横槍を入れたりしていた。どうしても彼女の趣味が好きになれなかったのだ。
 それでも一緒に夕飯の買出しに行く時間はとても好きだった。生活しているな、という感じが好きだったのだ。
 
 足繁く通った愛想のない八百屋で僕はいつも熟れたトマトを買っていた。値段は何と一籠五個入りで「百円」。ダイス状に切り、フライパンで煮詰めてソースにするには持って来いだったのだ。
 パスタにはもちろん、鳥胸肉とキノコを焼いたものと和えても良かった。
 
「賢治さん料理の才能あるよ、お店みたい」

 調理師だった彼女は僕の料理を食べるたび、そう言って嬉しそうに僕の作った下手な料理を食べていた。
 下らないバラエティ番組を見て一緒に腹を抱えて笑ったり、ハマってる漫画を薦め合ったり、好きなミュージシャンの話をしている時は僕も楽しかった。けど、彼女とのセックスを苦痛に感じている自分から目を背ける事が徐々に出来なくなっていた。
 僕の中の彼女は、いつまで経っても、共に暮らして身体を重ねても、友人のまま先に進まなかったのだ。

 ある日、仕事場で体調を崩してから彼女は休職を余儀なくされた。軽い鬱病になったのだ。
 僕は彼女をなるべく支えようと思っていたが、職場に一日でも早く復帰しようとする焦りから、彼女は少しずつ自信を失くし始めていた。
 何をするにも僕の許可を求めるようになり、僕の機嫌を伺う癖はより一層ひどくなった。僕が先に笑わなければ、彼女は笑わなくなった。

 そんな日々を過ごしていたある夜、居酒屋で二人で呑んでいると彼女が突然泣き出してしまった。仕事に対するプレッシャーが限界を越えてしまったのだ。

「私、これからどうしたらいいの? 戻ったら戻ったで絶対に文句言われるんだよ。きっと怠け者みたいに言われてさ、陰口叩かれるに決まってる」
「どうして決め付けるんだよ。戻るのが嫌だったら他の仕事探すんだっていいじゃん。別に一つの場所でずっと働くような時代でもないんだしさ」
「そんなの賢治さんが器用だから出来るんだよ!」

 彼女はテーブルを両手で叩き、本気の声を上げた。周りの客から「あの男、女泣かせてるぞ」なんて聞こえて来た。
 やっと、自分の言葉で喋ったな。そう思ったがちっとも嬉しくなかった。
 僕は少しも器用じゃなかった。仕事もその半年前に辞めていて、繋ぎだと言いながら派遣の仕事でダラダラと食い繋ぐ毎日。家賃も彼女に半分以上払ってもらっていたし、正規雇用の面接はことごとく落とされまくっていた。
 ずっと一緒に暮らしているはずなのに、お互いの事を少しも分かろうとしていなかった事に気付かされ、生活の全てが生活のママゴトだったんだと思ってしまった。
 僕はこんな言葉を返した。

「……器用じゃないし。俺は愛美の保護者になりたくないから」

 なんでよく頑張ったね、と言ってやれないんだろう。
 なんで素直に褒めてやれないんだろう。なんで、こんな時に俺がいるから、と言ってやれないんだろう。
 沈んで行く気持ちを抑える事が出来なかった。彼女は涙目のまま、テーブルに五千円札を叩きつけるように置いて店を出た。
 僕はその日アパートへは帰らず、電車で二時間掛けて実家に帰った。

 それからすぐに彼女に荷物を送ってもらい、鍵を郵送で返した。
 二年続いた同棲の割りに少ない荷物に、僕は何だか虚しさを感じた。そして、僕らは別れた。

 あの時から変わらない街並を歩きながら、彼女と歩いた道を思い出す。近道を探すのが好きだった彼女は、僕にたくさんの道を教えてくれた。
 路地裏の猫に凄まれ、驚いて小さな悲鳴を上げた彼女を思い出す。あの日猫がいた石垣も、今ではツタが伸び切っていて猫が居座る場所すらなくなっている。
 夏には小さな橋の上から阿弥陀くじみたいな線路を二人で見下ろしながら、生ぬるいビールを呑んでいた。
 急な雨が降ると彼女は傘を持って駅に立っていた。傘、あるよ。そう言って笑うと、彼女は慌てながら照れ笑いを浮かべていたっけ。
 なんで今さら、そんな良い思い出ばかり振り返るんだろう。

 少しの後悔を感じながら、アパートへ続く緑の多い坂道を登る。僕らの住んでいた三階建の古びた鉄筋コンクリートのアパートは、真新しい一軒家に代わっていた。

「なんだよ」

 僕は誰ともなしに、そんな風に呟いていた。
 生活に出来なかったままごとみたいな日常は、跡形も残さず綺麗に消え去っていたのだ。全てが幻か夢だったようにも思えた。
 軽い溜息をついて坂道を下る。T字路を左に曲がり、真っ直ぐ進む。
 歩きながら、僕はある事を思い出して業者に電話を掛けた。ちょっとした感傷のために、仕事の事がすっぽり頭から抜け落ちていた。

「渡瀬です、荻野さん今大丈夫ですか?」
「さっきはどうも、大丈夫ですよ」
「工事部品追加なんで、伝票打ち直さなきゃいけなくて。伝票の番号とお客さんの名前分かります?」
「えーっとね、ちょっと待って下さいね。いいですか?」
「はい、お願いします」

 メモ帳を開き、まっさらなページを捲る。

「番号がね、4587、9987」
「はい、4587、9987」
「顧客名が、ヤナギ マナミさん」
「漢字分かりますか?」
「柳は柳の木の「柳」、マナミはね、愛に美しいで愛美。うちの夫婦の愛はそんな綺麗なもんじゃないけどね」

 業者がハハハ、と笑いながら言う。僕は気掛かりになった事があって、世間話を装って話を続けた。

「荻野さんの愛が足りてないんじゃないですか?」
「いやぁ、愛を腰で与えてるんだけど、最近はスタミナがどうもねぇ」
「ははは。今日施工してる柳さんのお家は新築ですか?」
「うん、新しいね。お客さんがこれまた感じの良い夫婦でさ、新婚さんだってよ。もう、熱い熱い。奥さんは元々この辺りだってね」
「へぇ、当たりの現場でよかったですね」

 僕はその後、軽い挨拶を済ませてから電話を切った。

 もう潰れていたかと思っていた八百屋はまだやっていて、十年ぶりに僕はその店内に入ってみた。
 店主は相変わらずぶっきら棒で、いらっしゃいませも言わない。昔よりだいぶ細くなり、頭のほとんどが白髪になっていた。
 僕は久しぶりに出会えた一籠百円の熟れたトマトの乗った籠をレジに差し出す。

「はい、百万円」

 つまらないのは相変わらずだな、そんな事を思いながら僕は百円玉をトレーに置いて店を出る。
 心の片隅で思っていた「彼女にもしもバッタリ会ったら」なんて気持ちは、もうすっかり薄れていた。
 荻野さんの言った情報がとんでもない偶然である事を願いながら、そうであって欲しいと思いながら、僕は熟れたトマトをぶら下げてパーキングへ向かって歩き出す。
 
 駅が近付いてくる。入口で傘を持ち、僕を待つ彼女を思い描く。何処か不安げに僕を待っている彼女が僕を見つけて笑う。
 大きく手を振り、彼女は消えて行く。
 僕も大きく手を振り、駅前を通り過ぎる。
 こんな想像くらいしか出来ない僕だけは、変わらないんだと思うと笑いが込み上げて来る。
 仕方ねぇなぁ、と自分自身を笑いながらパーキングへ向かう。

 家に帰って一人でトマトソースを作る自分を思い描きながら、僕は歩くスピードを上げた。ビニール袋に入った熟れたトマトは夕方の光をちっとも弾かず、それでいて楽しげに揺れていた。

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